腹話術人形けんちゃんの日記

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首里高校時代のユネスコクラブ活動(1963年~1966年)・2014年9月26日(金)

2014-09-26 00:09:43 | 日記
高校1年の時から、放課後は、ユネスコクラブの部室(テニスコートの横)に
集まりました。10名は入れます。夜の10時まで話し合いをしたことも、何度もあります。ユネスコクラブには藤山賞というものがあって、その年は先輩たちが〔二つの中国〕というテーマで研究して藤山賞に応募することを考えていました。1964年当時は、共産中国と台湾は、仲が悪く対立していました。台湾の蒋介石総統は大陸反攻を唱えていました。私たちは、この二つの中国を比較対比する表を作り二つの中国に対する理解を深めました。中国の指導者は毛沢東でした。首里高校ユネスコクラブは、二つの中国で全国的な賞である藤山賞の努力賞を獲得しました。
 今考えてみても1965年当時に高校生がよく、二つの中国に取り組んだものだと関心します。レポートは数十ページに上る立派なものでした。
 1965年は、沖縄の城と墓をテーマに取り組みました。夏休みには北山高校で3泊4日の合宿をして北山城址を実地に調べました。沖縄の城と墓に関する資料を読んで理解を深めました。今考えてみても、1965年当時に私達の身近にある城と墓をテーマに選んだものだと関心します。この〔沖縄の城と墓〕は、藤山賞で最優賞を獲得しました。
 当時交流のあった大阪の手塚山高校ユネスコクラブから祝電がきました。学園祭では、沖縄の城と墓の模型を作って展示しました。今考えてみても、相当なレベルであったと思われます。
 普段はクラブ室に集まってゆんたくをする場合も多かったです。部員は、1年から3年まで20名程いました。
 普天間高校ユネスコクラブと交換会を持ったこともあります。顧問の先生は、あまり参加することなく、生徒が自主的に活動していました。1965年に手塚山高校が修学旅行で来た時にはユネスコクラブのメンバー6名を私の家に呼んで交流会を持ちました。
 20数名のユネスコクラブの部員も活動を通して多くのことを学んで、今でも財産になっていると思います。
 私は、キリスト教会の高校生の活動にも熱心に参加していました。それで勉強面は、どうしても疎かになっていました。でも多くの事を学ぶことができ、有意義な高校生活を送ったと思います。 明日、1年後輩のCさんと20年ぶりに会う約束をしています。Cさんなしでは,藤山賞の最優秀はとれなかったです。

学級PTA・首里高校・1年10組(1989年)・2014年9月24日(水)

2014-09-24 07:43:18 | 日記
  これは、1989年4月7日に書いたものです。
 今日は入学式だ。3時15分からは、学級PTAもある。どのように運営したらよいのか?
不安になる。
 午後2時、新入生が入場してきた。校長の挨拶、新入生の挨拶などがあって、アットいう間に入学式は終わった。
 午後3時30分から学級PTAが始まった。40名近くの父母が参加している。9枚の資料を準備したのだからと自分に言い聞かせる。それでも緊張している。
 トチリながら〔学級PTAを始めます〕と言った。簡単に私の自己紹介をしてから父母の自己紹介に移った。司会者を選んだ。T君のお父さんが引き受けてくれた
 次にPTA常任委員(2名)の選出に移った。KさんとOさんが積極的に引き受けてくれた。それから懇談会に移った。K・Kさんのお父さんが質問をした。〔きまぐれ日記の中に1969年どもり同好会の結成とありますが、どんな活動をしたのですか〕と。
 掲示板に〔どもり全員集合〕というポスターを貼りました。23名集まりました。
3分間スピーチを主にしました。度胸をつけるために、交番に行って〔龍潭池〕はどこですか?などの実地訓練をしました。と答えました。
 次に先程、常任委員に選ばれたOさん(女性)が立って話しをしました。〔実は、若い頃、私は非常にどもりでした。悩んでいましたが、歌を数多く歌うようにして。どもりを治しました。〕
 K・kさんのお父さんの質問を境にして、学級PTAは、なごやかな雰囲気に変わりました。
私は、父母の皆さんの心の温かさを感じました。とても幸せに思いました。
 4月7日の長い1日は、不安の朝で始まって、最後は天国に行った気分で幕を閉じました。

トラトラトラ・2014年9月21日(日)

2014-09-21 21:41:21 | 日記
  1990年7月20日に書いたものです。 
 トラトラトラという文字は、1941年12月8日に真珠湾奇襲に成功ということを意味することで、山本五十六連合艦隊司令官が東京の大本営に送った電文である。
 私も今日、7月20日にトラトラトラという電文を送る。我 クロールに成功せり!
ちょうど今から10年前に、自己流で25メートルを泳ぐことができたあの感激の時から10年目である。
 それ以後、時々プールに行っていたが自己流で泳ぐことに満足をしていた。去年9月北谷のプールで、数名の人がクロールで泳いでいるのを見て、カッコイイと思った。
 自分もできるようになりたいと考えて、宜野湾スイミングスクールの週1回コースに通った。夜の8時から9時までである。最初の頃は、1時間の練習時間が長く感じられ、プールの大時計を何回も見て、早くこの時間が終わって欲しいと思っていた。
 今年5月まで週1回は通っていた。だんだん、1時間の練習時間は苦痛でなくなったが、息継ぎは、ほとんどできなかった。6月には入ってから、自分はもう少しの努力をすればできるようになると信じることができた。
 6月の10日頃から、今日まで毎日のようにプールに行った。息継ぎが思うようにできないので、いつも悔しい思いをしてプールを去っていた。
 それが今日は、いつもと違う。25メートルを5回ぐらいできるのである。もちろん、25メートルを泳ぐと3分ぐらい休憩してから泳ぐのであるが。ど
 自分としては、かなりクロールができるようになったと思った。
ついにやった!クロールができる!去年の9月から、10ヶ月かかってついにやった。
 来年は1991年で真珠湾奇襲から50年目の節目にあたる。アメリカと日本は2度と戦争をしてはいけない。

栄光キリスト教会(京都・今熊野)・2014年9月18日(木)No2

2014-09-18 06:06:00 | 日記
 その2階に和歌山出身のIさん(同志社大学の経済学部)と一緒に住みました。賄い付で食事も付いていました。栗原牧師夫妻と次男が住んでいたと思います。1階は礼拝堂になっていました。アッセンブリー派と関係が深かったと思います。栗原牧師は、小柄で情熱的でした。凄く惹かれました。朝の聖書勉強会には参加しました。
 しばらくは大学に通っていましたが、そのうちに大学には行かなくなりました。その2階で自分でキリスト教関係の本を読んでいました。コピーのない時代でしたから、キリスト
による癒し〔T・Lオスボーン著〕の89ページの本をノートに書き写しました。
 その本の結論を書きます。
イエスが公の伝道を始められた時、それは奇跡の伝道であった。
 彼の受胎、誕生、生涯、知恵と教、伝道、死、復活、昇天これらすべては驚嘆すべき、否定でない奇跡であった。
 使徒たちの手から奇跡の流れが注ぎ出され、それは当時の宗教組織をくつがした。宗教とは形式であり儀式的行事である。しかし、キリスト教は命である。

栄光キリスト教会(京都・今熊野)・2014年9月18日(木)

2014-09-16 05:40:01 | 日記
 1966年の2月22日に、船で京都に向けて出発した。同志社大学(京都)の神学部に推薦入学が決まっていた。Gさん(同志社大学の工学部に推薦入学)と一緒に、那覇港から船で出発した。海は大荒れで、あまりの苦しさに相撲部出身のGさんが〔来なければ良かった〕と弱音を吐きました。24時間後に鹿児島港に入港しました。鹿児島市内で1泊して翌日に特急で京都に向かいました。24時間後に京都に到着しました。
 兄が京都に住んでいたので、私は兄の間借り先に居候させてもらいました。4月からは生活共同組合を通して、上の写真の家の2階を借りました。