腹話術人形けんちゃんの日記

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バーバラからのハガキ・2021年3月7日(日)

2021-03-07 12:10:06 | 日記
Dear Mitsuo May24,2013
Thank you for your phone call.
Congratulations on your daughter's October marriage.
I'm also pleased to know that you, your family & The Izena's are fine.
I hope you do get to travel to Tokyo soon.
(I will be in California ,July 16th~29th& December18th~January6,2014
Spain August5th~September5th, France,October4th~24th)
I hope to return to India in 2014, and possibly to Japan ?
Noriko stopped writing.
Do you see her ?
I enjoyed all the people I met in my 2 visits to Japan and in all my travels, which I hope to continue,
I'd like to see as much of our world as possible.
It is a privileged way to learn .
My regards to all your family, & The Izena's
Sincerely yours, Barbara

あの逆行性の櫂を握って・ムイ・フユキ・2021年3月7日(日)

2021-03-07 01:30:07 | 日記
  あの逆行性の櫂を握って  ムイ・フユキ

35年ほど前「文芸教室」に出入りしていた―沖国大生だった頃ー

詩の朗読会に誘われて参加したーあの職員食堂だったー

上記のタイトルはその時の自作の詩の結び

「あの逆行性の櫂を握って僕はそこを出て行くしかなかった」

季節工で金を貯め4年遅れで大学に行きー夜警をしながらー

学生結婚で子供も生まれて必死に藻掻き足掻いていた

頭にハゲも作りながら子持ち掛け持ち6年半かけて卒業

その後も更に5年間、働きながら看護学校に行く

「文芸」は僕の櫂の原点でーアル中の詩人の出版社は潰れたー

2ヶ所の精神科病院で暖簾わけのように「文芸」耕しをした

そして定年前の約10年は「文芸教室」に舞い戻っていた

文芸サークルや文芸ひろばと名乗ったがあの「文芸教室」と認知

―「文芸ひろば」として利用した部屋はあの懐かし職員食堂ー

あれから35年経ても僕はあの逆行性の櫂を漕ぎ続ける

抗い抗い文字を打つ 言葉を紡いで紡いで便りする

10の通信 50の通信 100の通信 思いを馳せる 諦めずに

―「A letter from Friday afternoon」とサブタイトルした-

諦めずに何か書く 反応があってもなくても発信し続ける

櫂のエークは「親子」から来ているー親が肉体・櫂は精神かー

生きることは藻掻き足掻くこと 出て行っても出て行っても

いつまでも扉がある      (2021年2月28日「ミニ文芸」にて)

高校時代の思い出・2021年03月01日(月)

2021-03-01 01:20:17 | 日記
     高校時代の思い出 
  下記は、2014年09月28日に書いたものです。
 高校1年の時から、放課後は。ユネスコクラブの部室(テニスコートの横)に
集まりました。10名は入れます。夜の10時まで話し合いをしたことも何度もあります。。
ユネスコクラブには藤山賞というものがあって、その年は先輩たちが「二つの中国」
というテーマで研究して藤山賞に応募することを考えていました。
 1964年当時は、共産中国と台湾は、仲が悪く対立していました。
台湾の蔣介石総統は、大陸侵攻を唱えていました。中国の指導者は毛沢東でした。
 私たちは、この二つの中国を比較対比する表を作り、二つの中国に対する理解を深めました。
首里高校ユネスコクラブは、二つの中国で全国的な賞である藤山賞の優秀賞を獲得しました。
 今、考えてみても1965年当時に高校生がよく、二つの中国に取り組んだものだと感心します。
レポートは数十ページに上る立派なものでした
 1965年は、沖縄の城と墓をテーマに取り組みました。
夏休みには北山高校で3泊4日の合宿をして北山城址を実地に調べました。
沖縄の城と墓に関する資料を読んで理解を深めました。
 今、考えてみても、1965年当時に、よく私達の身近にある城と墓をテーマに選んだものだと感心します。
この「沖縄の城と墓」は、藤山賞の最優秀賞を獲得しました。
当時交流のあった大阪の手塚山高校ユネスコクラブから祝電が来ました。
 学園祭では、沖縄の城と墓の模型を作って展示しました。
今、考えてみても相当なレベルであったと思われます。
 普段は、クラブ室に集まって、ゆんたくをする場合が多かったです、
部員は、1年から3年まで20名程いました。
普天間高校ユネスコクラブと交換会を持ったこともあります。
 顧問の先生は、あまり参加することなく、生徒が自主的に活動していました。
1965年に、手塚山高校が修学旅行で来た時には、ユネスコクラブのメンバー6名を私の家に招待して
交流会を持ちました。。
 20数名のユネスコクラブの部員も活動を通して多くのことを学んで、今でも財産になっていると
思います。
 私は、キリスト教会の高校生活動にも熱心に参加していました。
それで、勉強面は、どうしても疎かになっていました
 でも多くの事を学ぶことができ、有意義な高校生活を送ったと思います。
明日、1年後輩の知念広義さんと20年振りに会う約束をしています。
彼なしでは、藤山賞の最優秀賞は取れなかったです。