極意とはナニ?
その字の通りよみます。
『意を極める』です。
もう少し言いますと、「意識を極める」ということです。
また、もう少し言いますと
「意識のスイッチ(ボタン)を知り、そのスイッチをいれて
自分のからだを道具としてまた感覚器官として体現する行為」となります。
もっと書きますと
『その意識(体現した状態)をもったまま繰り返し稽古することに意義がある』
となります。
最後に
『形なんてどうでもいいじゃないか、そうだったんだ!!』となります。
ではそうなるために何が必要でしょうか?
そこが問題になってきます。
それはそのひとの独学(一代)では絶対といっていいほど無理です。
手にはいるモノは「身体操作の極み」です。
"身体操作の極み"
では何が拙いのかというと
加齢による衰えがあるという点です。
では意識を極めるという武術の極意レベルでは
身体の衰えとは無縁なのかというと
極端なことを書けば、無縁だといえます。
ただし、
目(視力は衰えます)
手や足の筋肉は衰えます。
瞬発力もなくなります。
しかし
そんな枝葉のことではなくて
物理的に衰え難い(爺さんになっても)実体があります。
人間にも動物にも、
それは医学書みてもネット情報でも
そこは存在します、何度も書きますが物理的にです。
「氣」とか抽象的なものではないということです。
入口はですが。
ではなぜそれを教えないのか?
武術的にヒミツにしているからです。
または知らなかです。
なぜヒミツにしているかというと
代表的な理由としては
教えた人の優位性が無くなるためです。
武術は歴史的にみても命のやりとりです。
つまり教える必要がないというのが
武術の性格だからともいえます。
ですから、師がある程度まで身体操作を教えた後は(意識操作も少しはふくみますが)
あとは、自身で修行しなさいと
突き放す場合があるわけです。
私が書けるのはここまでです。
これ以上書いてもいいですが
その2.へ続く。
その字の通りよみます。
『意を極める』です。
もう少し言いますと、「意識を極める」ということです。
また、もう少し言いますと
「意識のスイッチ(ボタン)を知り、そのスイッチをいれて
自分のからだを道具としてまた感覚器官として体現する行為」となります。
もっと書きますと
『その意識(体現した状態)をもったまま繰り返し稽古することに意義がある』
となります。
最後に
『形なんてどうでもいいじゃないか、そうだったんだ!!』となります。
ではそうなるために何が必要でしょうか?
そこが問題になってきます。
それはそのひとの独学(一代)では絶対といっていいほど無理です。
手にはいるモノは「身体操作の極み」です。
"身体操作の極み"
では何が拙いのかというと
加齢による衰えがあるという点です。
では意識を極めるという武術の極意レベルでは
身体の衰えとは無縁なのかというと
極端なことを書けば、無縁だといえます。
ただし、
目(視力は衰えます)
手や足の筋肉は衰えます。
瞬発力もなくなります。
しかし
そんな枝葉のことではなくて
物理的に衰え難い(爺さんになっても)実体があります。
人間にも動物にも、
それは医学書みてもネット情報でも
そこは存在します、何度も書きますが物理的にです。
「氣」とか抽象的なものではないということです。
入口はですが。
ではなぜそれを教えないのか?
武術的にヒミツにしているからです。
または知らなかです。
なぜヒミツにしているかというと
代表的な理由としては
教えた人の優位性が無くなるためです。
武術は歴史的にみても命のやりとりです。
つまり教える必要がないというのが
武術の性格だからともいえます。
ですから、師がある程度まで身体操作を教えた後は(意識操作も少しはふくみますが)
あとは、自身で修行しなさいと
突き放す場合があるわけです。
私が書けるのはここまでです。
これ以上書いてもいいですが
その2.へ続く。