☆平成26年1月28日(火)
【三国丘道場事前審査】
・三国丘道場では、少年部合気道と一般部合気道の両方で
試験前審査(=事前審査)を行い、全員合格で本試験に進む
ことができました。
審査をするなら徹底的に・という方針はなかなか良いと考えます。
前回も本試験では3名が不合格になり、そのうちの1名が今回の
事前審査で合格となりました。嬉しく思います。
審査してもしなくてもどちらでも構わないような選択をしている
限りはダメです。いったいなんのために審査しているのか分から
ないからです。
【自分の合気道スタイル】
合気道家は自分のスタイルをもってこそ。
私は現在、合気道を誰からも教わることなく自分で歩んでいる
ところです。ただお弟子さんからは教わることはたくさんあり
すぎるほどありますが・・・
自分に確たる合気スタイルがなければ、ただ蘊蓄(うんちく)
をひけらかすだけであって、品のある人間ではなくて、ただ単
に合気道オタクか商業主義的な武商(武将ではない)じゃあない
かと厳しく自分に問いかけています。そんな事を感じながら
達人‐植芝盛平‐その11を今日も書いてみました。
【達人‐植芝盛平‐その11】
客観的に植芝盛平(=合気道)という人物を見つづけてて師事さ
れ、側にいて修行をされた方は、藤平光一先生以外にあまり多
くはおられなかったのではないかと考えます。
藤平光一先生は植芝先生を疑いの目でも見ず、また教えを
100%受けいれるところから修行が始まったと述懐されています。
植芝盛平翁の合気道ですが、
武田惣角氏から植芝盛平翁は合気道の核になるものを学んだと
考えられるがその中味とはどんなものであったのか?
その前に武田惣角氏の技を受けた盛平翁は今まで自分の経験して
いる武術と明らかに次元が違っていることを受け入れた。これが
武田氏と盛平翁との出会いです。
それはカルチャーショックを受けるほどのものだと想像できます。
その後の植芝先生は武田氏に対してそれはそれは絶対的に服従する
といってもよいほどお世話をしていたと証言、書がのこされています。
一例ですが、盛平翁の高弟が証言しています。盛平翁の道場に
武田氏が来られた時には、
「植芝! 飯(めし)」とか「植芝、風呂はまだか」というのに間髪を入
れずに「はい、ただいま」と盛平翁はおっしゃられていたとか・・・
合気ニュースに書かれていますので事実なのでしょう。
これは心底から慕うというココロがないと無理です。藤平光一先生
も著書のなかで
「大東流柔術の武田惣角先生についても、植芝先生は生涯、師匠として
敬っていた。」と記されています。北海道開拓時代の植芝先生は武田氏
の食事の支度、世話まで自らしたと藤平光一先生は述べています。
しかし藤平光一先生を始め、植芝先生の一部のお弟子さんらには軒並み
武田惣角氏に対しての武術家的評価はあまり高くありませんでした。
この理由は確信に近いレベルで推測していますが時がきたらブログとい
う形ではなく発表できたらいいなと思います。
藤平光一先生は著書で
「合気道には、大東流合気柔術の武田惣角先生から植芝盛平先生という
流れがあるとされている。しかし、武田流というのは合気道において、
まったく役に立たなかったのではないかと私は思っている。なぜなら
植芝先生の合気道の本質は、武田惣角先生から習ったものとは言えそ
うもないからだ。」とあります。
私は、100%とこうだとは申せませんが、さすが藤平光一先生だけあって
本質は見抜いています。植芝先生の合気道の核心技は武田氏が教えたも
のではありません。正しくは直接教えたものではない
けれども、武田惣角先生との出会いがなければ植芝合気道の完成もなかっ
たと断言できます。
藤平光一先生は、植芝先生の事をこうも書いておられます。
「先生は綾部(京都府、大本教の本部)へ行ってから強くなったらしい
、それも以前とは見違えるほど劇的に、だ。」
さてその強くなられた種はどこから来たのか、誰にもらったのか?
それは植芝先生が武田惣角先生から授けられた(正確には体験させられた)
と考えるべきです。
そうしないと後の歴史的事実から考えてもつじつまが合わないことがあり
自然とそういう考えに至りました。
さて、武田惣角氏から盛平翁は核になるものを学んだと考えられるが
その中味とはどんなものであったのか?。
私には教わった詳細は分かりませんし、事実的に何を教わったのか具体的
に書いている資料がありません。しかし想像はつきます。
1.大東流の型、または他の型
2.武田惣角先生の身に付けられた技術、つまり合気技
この2つです。しかし武田氏の教え方はいろいろな資料から考えてみても
親切丁寧であったとは考えられません。つまり2.の合気技術は完全に暈し
て指導されていたんではないかと思います。
つまりあまり教えたくなかったのではないかと・・・
推測の範囲ですが、そんなに簡単に出来てもらっては困ると思われたので
しょうか。はっきりとは言えませんが・・。
日本の学校で英語を話せる教育を意図的にしないのと同じ理由(私の考えですが)
なのかもしれません。
今の英語教育では中途半端も中途半端でペーパーテストのための英語教育
としか言えません。私の指導に行っているインターナショナルスクールみ
たいにネイティブの先生(日本語を全く理解できないか、ほとんど話せない)
が行う英語での授業ばかりに囲まれて小学校を過ごさないと、それぐらいの
覚悟をもってやらないと無理です。
話を戻しますが、後の植芝合気道の核になった技術を、私は合気技と表現し
ています。
植芝先生のお弟子さんの一部で武田惣角氏への評価はあまり高くありま
せんでした。と書きましたが・・・
一つだけ書いておきます。武田惣角氏は強い時期があったのはまぎれもない
事実です。それも当時は武田氏しかできなかった技術を持っていたということ、
それも天才的に。
しかし、ある理由から藤平光一先生が出会ったころの武田惣角先生は
往年の輝きを失っていました。
それはある事件事実として文章にも記録されていますが割愛いたします。
結局のところ、
武田惣角氏は歴史に名を残すに値する人物だった。と私は結論付けています。
ただ武道家として最後の詰めが甘かったため、植芝先生は70歳を超えられて
も技に切れがあり達人として君臨できたのですが、武田氏はそうではなかった。
ここのところをブログでなかったら書きたいところなのですが、残念ですが
書けません。誰も発表していないことですし、合気道をやっている先生、師
範レベルの人でもおそらく分からないと思います。それより関心がまずない
でしょう。
【3.11を考える―その2】
2011年3月11日の夕刊(写真)より
地震のすぐあとの夕刊であり、当然まだ震災の記事はありません。
一面には、九州新幹線の開業を明日に控えた記事があります。また
参院では皮肉なことに、菅直人首相の答弁中の写真が掲載され、
そして献金問題で引責辞任を否定 という記事内容がのっています。
12日の産経朝刊の四面には地震ドキュメントがあります。
そこの主な項目をぬきだして並べてみます。
11日
14時46分ごろ―地震発生。
14時49分―気象庁が東北を中心に津波警報を出す
14時50分―首相官邸危機管理センターに官邸対策室設置
14時52分―岩手県知事、陸上自衛隊に災害派遣要請
15時00分―福島第一、第二など原発11基が自動停止
15時05分―航空自衛隊戦闘機6機が被害確認のため出動
仙台市で火災、大規模停電
15時25分―海上自衛隊横須賀基地の全艦船が宮城県沖へ向かう
15時32分―釜石で津波
15時55分―仙台新港で津波 高さ10m
19時03分―福島県相馬市で内陸4~5㎞までの津波を確認
19時30分―栃木県で56万世帯停電
21時23分―福島第一原発から半径3㎞以内の住民に避難指示でる
22時17分―仙台市と塩釜市の境にある石油化学コンビナートで大規模爆発
22時32分―仙台市宮城野区の小学校屋上の児童と住民百数十人を陸自が救助活動
23時13分―陸自によると、仙台市内の約200か所に6万~7万人が避難。
●震災発生時は、まず自分の身を護ること優先です。
常に手袋、マスクくらいは持ち歩いていたほうがよさそうです。
記事をみてみますと、
12日の朝刊には地震発生時の様子がこう書かれています。
「仙台市青葉区一番町、繁華街、午後2時46分シヨッピングなどを楽しんでいた
人たちは次第に大きくなる揺れに悲鳴を上げた。建物内から飛び出そうとし
た人たちも、上から瓦礫のようなものが落ちてくるため、外にでられない。
周囲にはほこりが舞い上がって視界も悪くなり・・・・」
難しいことですが、まずは落ち着いてというところから始まると、次に
上方向注意して避難です。
普段の生活では上を注意して生活をしていません。非常時に会えばそれが
命取りになるかもしれません。電柱のトランスが落下、ベランダの植木鉢
クーラーの室外機が上から落ちてくるかも・・・・
【写真は産経新聞平成23年3月12日朝刊】
この写真は場所は福島県いわき市、時間は午後3時57分の写真。
避難所へ向かうところと推測できますが、新聞からは詳しくはわかりません。
手提げかばんを持っているところをみれば避難するところだと思います。
がれきを乗り越えて徒歩で避難ということを考えると、軍手は必要です。
また運動靴を履くことです。
12日の朝刊社会面の記事から震災当日を抜粋します。
・避難所は停電で真っ暗なこと
・毛布や食料などの救援物資が届いておらず・・・
・薬をのみたくても水がない
・ある避難所では火事の危険性があり暖房を使えず
・ある避難所では懐中電灯でてらしながら、届いた乾パンと水で飢えをしのいだ・・
避難時は、身分証明書や通帳、ペットボトル、懐中電灯、手袋、マスク、タオルなど
必要なものをあらかじめ簡易なバッグに入れておくことが大切かと思います。
大分あとのことですが銀行の通帳がなくても、この災害では身分証明書があれば
緊急措置として現金をおろせたという記事が載っていました。ですから免許書や
保険証は常に肌身離さず持っている方がよいと思います。
【三国丘道場事前審査】
・三国丘道場では、少年部合気道と一般部合気道の両方で
試験前審査(=事前審査)を行い、全員合格で本試験に進む
ことができました。
審査をするなら徹底的に・という方針はなかなか良いと考えます。
前回も本試験では3名が不合格になり、そのうちの1名が今回の
事前審査で合格となりました。嬉しく思います。
審査してもしなくてもどちらでも構わないような選択をしている
限りはダメです。いったいなんのために審査しているのか分から
ないからです。
【自分の合気道スタイル】
合気道家は自分のスタイルをもってこそ。
私は現在、合気道を誰からも教わることなく自分で歩んでいる
ところです。ただお弟子さんからは教わることはたくさんあり
すぎるほどありますが・・・
自分に確たる合気スタイルがなければ、ただ蘊蓄(うんちく)
をひけらかすだけであって、品のある人間ではなくて、ただ単
に合気道オタクか商業主義的な武商(武将ではない)じゃあない
かと厳しく自分に問いかけています。そんな事を感じながら
達人‐植芝盛平‐その11を今日も書いてみました。
【達人‐植芝盛平‐その11】
客観的に植芝盛平(=合気道)という人物を見つづけてて師事さ
れ、側にいて修行をされた方は、藤平光一先生以外にあまり多
くはおられなかったのではないかと考えます。
藤平光一先生は植芝先生を疑いの目でも見ず、また教えを
100%受けいれるところから修行が始まったと述懐されています。
植芝盛平翁の合気道ですが、
武田惣角氏から植芝盛平翁は合気道の核になるものを学んだと
考えられるがその中味とはどんなものであったのか?
その前に武田惣角氏の技を受けた盛平翁は今まで自分の経験して
いる武術と明らかに次元が違っていることを受け入れた。これが
武田氏と盛平翁との出会いです。
それはカルチャーショックを受けるほどのものだと想像できます。
その後の植芝先生は武田氏に対してそれはそれは絶対的に服従する
といってもよいほどお世話をしていたと証言、書がのこされています。
一例ですが、盛平翁の高弟が証言しています。盛平翁の道場に
武田氏が来られた時には、
「植芝! 飯(めし)」とか「植芝、風呂はまだか」というのに間髪を入
れずに「はい、ただいま」と盛平翁はおっしゃられていたとか・・・
合気ニュースに書かれていますので事実なのでしょう。
これは心底から慕うというココロがないと無理です。藤平光一先生
も著書のなかで
「大東流柔術の武田惣角先生についても、植芝先生は生涯、師匠として
敬っていた。」と記されています。北海道開拓時代の植芝先生は武田氏
の食事の支度、世話まで自らしたと藤平光一先生は述べています。
しかし藤平光一先生を始め、植芝先生の一部のお弟子さんらには軒並み
武田惣角氏に対しての武術家的評価はあまり高くありませんでした。
この理由は確信に近いレベルで推測していますが時がきたらブログとい
う形ではなく発表できたらいいなと思います。
藤平光一先生は著書で
「合気道には、大東流合気柔術の武田惣角先生から植芝盛平先生という
流れがあるとされている。しかし、武田流というのは合気道において、
まったく役に立たなかったのではないかと私は思っている。なぜなら
植芝先生の合気道の本質は、武田惣角先生から習ったものとは言えそ
うもないからだ。」とあります。
私は、100%とこうだとは申せませんが、さすが藤平光一先生だけあって
本質は見抜いています。植芝先生の合気道の核心技は武田氏が教えたも
のではありません。正しくは直接教えたものではない
けれども、武田惣角先生との出会いがなければ植芝合気道の完成もなかっ
たと断言できます。
藤平光一先生は、植芝先生の事をこうも書いておられます。
「先生は綾部(京都府、大本教の本部)へ行ってから強くなったらしい
、それも以前とは見違えるほど劇的に、だ。」
さてその強くなられた種はどこから来たのか、誰にもらったのか?
それは植芝先生が武田惣角先生から授けられた(正確には体験させられた)
と考えるべきです。
そうしないと後の歴史的事実から考えてもつじつまが合わないことがあり
自然とそういう考えに至りました。
さて、武田惣角氏から盛平翁は核になるものを学んだと考えられるが
その中味とはどんなものであったのか?。
私には教わった詳細は分かりませんし、事実的に何を教わったのか具体的
に書いている資料がありません。しかし想像はつきます。
1.大東流の型、または他の型
2.武田惣角先生の身に付けられた技術、つまり合気技
この2つです。しかし武田氏の教え方はいろいろな資料から考えてみても
親切丁寧であったとは考えられません。つまり2.の合気技術は完全に暈し
て指導されていたんではないかと思います。
つまりあまり教えたくなかったのではないかと・・・
推測の範囲ですが、そんなに簡単に出来てもらっては困ると思われたので
しょうか。はっきりとは言えませんが・・。
日本の学校で英語を話せる教育を意図的にしないのと同じ理由(私の考えですが)
なのかもしれません。
今の英語教育では中途半端も中途半端でペーパーテストのための英語教育
としか言えません。私の指導に行っているインターナショナルスクールみ
たいにネイティブの先生(日本語を全く理解できないか、ほとんど話せない)
が行う英語での授業ばかりに囲まれて小学校を過ごさないと、それぐらいの
覚悟をもってやらないと無理です。
話を戻しますが、後の植芝合気道の核になった技術を、私は合気技と表現し
ています。
植芝先生のお弟子さんの一部で武田惣角氏への評価はあまり高くありま
せんでした。と書きましたが・・・
一つだけ書いておきます。武田惣角氏は強い時期があったのはまぎれもない
事実です。それも当時は武田氏しかできなかった技術を持っていたということ、
それも天才的に。
しかし、ある理由から藤平光一先生が出会ったころの武田惣角先生は
往年の輝きを失っていました。
それはある事件事実として文章にも記録されていますが割愛いたします。
結局のところ、
武田惣角氏は歴史に名を残すに値する人物だった。と私は結論付けています。
ただ武道家として最後の詰めが甘かったため、植芝先生は70歳を超えられて
も技に切れがあり達人として君臨できたのですが、武田氏はそうではなかった。
ここのところをブログでなかったら書きたいところなのですが、残念ですが
書けません。誰も発表していないことですし、合気道をやっている先生、師
範レベルの人でもおそらく分からないと思います。それより関心がまずない
でしょう。
【3.11を考える―その2】
2011年3月11日の夕刊(写真)より
地震のすぐあとの夕刊であり、当然まだ震災の記事はありません。
一面には、九州新幹線の開業を明日に控えた記事があります。また
参院では皮肉なことに、菅直人首相の答弁中の写真が掲載され、
そして献金問題で引責辞任を否定 という記事内容がのっています。
12日の産経朝刊の四面には地震ドキュメントがあります。
そこの主な項目をぬきだして並べてみます。
11日
14時46分ごろ―地震発生。
14時49分―気象庁が東北を中心に津波警報を出す
14時50分―首相官邸危機管理センターに官邸対策室設置
14時52分―岩手県知事、陸上自衛隊に災害派遣要請
15時00分―福島第一、第二など原発11基が自動停止
15時05分―航空自衛隊戦闘機6機が被害確認のため出動
仙台市で火災、大規模停電
15時25分―海上自衛隊横須賀基地の全艦船が宮城県沖へ向かう
15時32分―釜石で津波
15時55分―仙台新港で津波 高さ10m
19時03分―福島県相馬市で内陸4~5㎞までの津波を確認
19時30分―栃木県で56万世帯停電
21時23分―福島第一原発から半径3㎞以内の住民に避難指示でる
22時17分―仙台市と塩釜市の境にある石油化学コンビナートで大規模爆発
22時32分―仙台市宮城野区の小学校屋上の児童と住民百数十人を陸自が救助活動
23時13分―陸自によると、仙台市内の約200か所に6万~7万人が避難。
●震災発生時は、まず自分の身を護ること優先です。
常に手袋、マスクくらいは持ち歩いていたほうがよさそうです。
記事をみてみますと、
12日の朝刊には地震発生時の様子がこう書かれています。
「仙台市青葉区一番町、繁華街、午後2時46分シヨッピングなどを楽しんでいた
人たちは次第に大きくなる揺れに悲鳴を上げた。建物内から飛び出そうとし
た人たちも、上から瓦礫のようなものが落ちてくるため、外にでられない。
周囲にはほこりが舞い上がって視界も悪くなり・・・・」
難しいことですが、まずは落ち着いてというところから始まると、次に
上方向注意して避難です。
普段の生活では上を注意して生活をしていません。非常時に会えばそれが
命取りになるかもしれません。電柱のトランスが落下、ベランダの植木鉢
クーラーの室外機が上から落ちてくるかも・・・・
【写真は産経新聞平成23年3月12日朝刊】
この写真は場所は福島県いわき市、時間は午後3時57分の写真。
避難所へ向かうところと推測できますが、新聞からは詳しくはわかりません。
手提げかばんを持っているところをみれば避難するところだと思います。
がれきを乗り越えて徒歩で避難ということを考えると、軍手は必要です。
また運動靴を履くことです。
12日の朝刊社会面の記事から震災当日を抜粋します。
・避難所は停電で真っ暗なこと
・毛布や食料などの救援物資が届いておらず・・・
・薬をのみたくても水がない
・ある避難所では火事の危険性があり暖房を使えず
・ある避難所では懐中電灯でてらしながら、届いた乾パンと水で飢えをしのいだ・・
避難時は、身分証明書や通帳、ペットボトル、懐中電灯、手袋、マスク、タオルなど
必要なものをあらかじめ簡易なバッグに入れておくことが大切かと思います。
大分あとのことですが銀行の通帳がなくても、この災害では身分証明書があれば
緊急措置として現金をおろせたという記事が載っていました。ですから免許書や
保険証は常に肌身離さず持っている方がよいと思います。