写真!入院中に息子が病室で書いた絵
ピカチューなんですかね?本人覚えておりやせん
ドラえもんと吹き出しに書いてますが、ドラえもんを呼んでる??
謎な絵ですなー
《手術室、続き》
覚えているのは、暗くて、深くて、記憶にある限りで
こんな睡眠は経験したことのない深い、深い眠りでした。
「○○さ~ん。終わりましたよ~。起きれますか~。」
という声が聞こえ、目が覚めると手術室で、数人の先生、
看護士さんが私を覗き込んでいる光景が。。
主治医のK先生が「無事成功です。完璧な手術でしたよ」
「どこか痛いところありますか?」
の声に、最初は「あっ!終わったんだ」
と安心し、次にとんでもない激痛が!!
もうどこがどう痛いかもわからず、胸から開腹した辺りまで
とにかく痛い
ストレッチャーで戻る時も、痛さを堪えられず、
かなり大騒ぎした記憶があります
午前9:30に手術室に入り、終わって目が覚めたときには
夕方4:00近くでした。
結局6時間半位手術室に居たことになります。
その日から翌日にかけて完全看護状態で、
感染症や合併症の心配がありましたので、ピリピリした
状況だったように思います。
わたしはというと、多分40度近い高熱と、痛さで半分意識
モウロウとしており、この日の一晩はほとんど記憶が
ありません。
(この普通以上の痛みと高熱には原因がありまして。
後ほどこの原因については書きたいと思います)
ただ、かみさんが一晩中居てくれたのと、看護士さんが
汗を拭きにやら、点滴交換やらで来ていた事位しか記憶に
ないです。
口に酸素を送るマスクを付けていましたが、高熱による
発汗で、どうも邪魔になるのか、自分で外していたようで
外しては戻しの連続をかみさんはしていたようですね
[2001年 7月18日~]
翌朝目が覚めるものの、痛みと高熱は相変わらず・・・
感染症などを心配してか、先生が何度も来てましたが、
やはり自分はもうろうとしてました。
午後位からでしょうか。
痛み止めの薬が少し効いてきたのか、痛みが和らぎ。
この頃からよく覚えてますが、気付けば体中管だらけ
まるで人造人間に改造されているかのような事態に
初めて気付き
主治医の話によると、割腹がいいので、30センチ近く、
開腹したと聞き。。
そりゃ痛いわけだな・・・と諦めました
痛みは日に日に和らぐものの、相変わらず熱が38度前後で、
目の前にあるカレンダーの、1週間先位の日を見つめ、
「早く時間が経たないかな・・・」
などと考えておりましたね。
食事は、オモユから少しずつおかゆに変わり、できるだけ
完食するように!と言われますが、ほとんど食べず・・・
「食欲そんなにないですか?」との問いに、
正直食べようと思えば食べれますが、こんな寝たきりの状態で、
「大便」したくなったら大変だと、そんな心配から食べませんでした
それを看護士さんに話したら、思いっきり叱られましたね
でも「いや!車椅子で動けるようになるまでは、絶対嫌!!」
と反論したら今度は主治医に叱られ
看護士さんが「私たちの大事な仕事ですから。あなたの下の世話
だけではなく、みなさんの世話をしているのだから気にしないで」
とのお言葉に負け、その後出された食事を全て食べるように
でもやっぱり屈辱的な気持ちになりました
動けない、こんなことも人の世話になるなんて。
カッコつけている場合ではないのは承知してますが、やはり
受け入れがたい、辛い時間でしたね。。。
[2001年 7月22日~]
背中の脊髄に沿って入っていた管(痛み止め)を外せる日。
一気に引き抜くのですが、一瞬呼吸が止まるような、
腰が抜けるような感覚でしたね
ところが、この管を抜いたあと、熱も下がり、痛みもほとんど
なくなりました。
(体を動かすと痛みはまだありますが)
その後、2日に分けて抜糸や、傷口のドレン、尿道カテーテル
などが外され、だんだん楽になってきました。
尿袋も最初は真っ赤な血ばかりでしたが、次第にピンク色に
変わり、外す頃には普通の尿の色に変わっており。
初めて2本足で立った時は、さすがに貧血のような状態で、
数秒間しか立てませんでしたが、少しずつ車椅子の乗り降り、
トイレに立つなど動かし始め。
歩く距離も、最初は病室の洗面所まで歯磨きに行くのが
精一杯でしたが、食事の後の配膳まで歩いたり、
来客用の待合室まで歩いたり、少しずつ距離を延ばして。
時間と共に無事回復しているのがよくわかりましたね。
だいぶ長くなってしまいました
この辺はメモがありませんので、記憶を頼りに書いてます
次回あたりで最終回にしますので!!