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読書の森

ナイチンゲールとクリミア戦争

紫陽花が色づき、季節は夏に入ろうとしてます。
しかし、季節は変わっても、冷たい戦争の終わりは見えてません。

それにしても、何故ロシアはウクライナにこれほどの執着を見せるのでしょうか?
私如きが語る話ではないですが(一応考え方として)理由の一つに黒海の領有権があると思います。


1996年購入の汚い地図で恐縮ですが、黒海をロシア、ウクライナ、トルコが囲む形になってます。

黒海は冬でも凍らないのです。
冬は殆どの港が凍りついて航海が出来ないロシアにとって、かって自国だった時に重要な地点だった筈です。
航空機のない昔は、黒海を通らないと流通の手段がないからです。
という事は当然周辺各国にとっても魅力的な場所である筈です。

そこで、主要な港のあるクリミア(クリム)半島は各国の利権が絡まった戦いが絶えない歴史を持ってます。

この戦いの中で有名なのがクリミア戦争です。
この戦いの中で看護活動に従事したのが、かのナイチンゲールです。
ナイチンゲールの顔写真をup出来ないからだけでなく、1960年代正看護師だった方の写真を載せました。

彼女は私が中2(1960年)脚の手術で入院した病院の看護婦さんです。
正看護師は当時としては珍しく、中学卒業後看護学校で学ぶ准看護婦が多い状況でした。医院で働きながら準看の学校へ通う人もいました。
女子大生の数もごく僅かだった時代に、高校を出て看護大学にいく女性はそれなりの覚悟があったと思います。

経済的な事を考えれば凡そ割に合わない仕事です。給料は低いし仕事は極端にキツイ。しかも看護婦の地位は非常に低く、人によっては蔑む事もあったのです(驚くべきことに、異性の裸を扱う必要があるかららしい)。しかも大学出の女性というと医者も煙たがる。玉の輿に乗った看護婦さんは准看が多かったようです(患者として実感しました)。

写真の看護婦さんは正看護師であることを気振りに全然見せてません。
むしろ進んでいわゆる3Kの仕事をする(患者の排泄物を処理したり、重たいベッドを動かしたり、です)
聡明なのに全然威張ってない、献身的で暖かい看護をしてくださいました。
私にとって忘れられない方です。

さて、本題に戻って1853年のクリミア戦争は各国の利権争いから生じたのですが、ナイチンゲールはその中で分け隔てなく傷ついた人の看護活動に従事しました。
世界で初の看護師さんなのです。実はこの時彼女は30歳を超えてます。

高等教育を受けた彼女は、正式な看護が行き届かず、多くの戦争で傷ついた兵士の悲惨な様子を知り、決死の覚悟で女性24名の看護者を引き連れ、戦乱の地に入ったのです。
砲弾が飛び交い、バッタパッタと人が倒れ、自分の明日の命も知れない中で、僅かな治療用具だけで看護に当たる訳です。
当然利害を考えては行動出来ません。自分の名前を売りたい訳でもない、知人は蛮行と呆れるだけですから

この決死の看護の結果、
傷ついたり病んだ兵士の死亡率が40%から2%に下がった❣️のです。

戦争がやっと終結して、帰国したナイチンゲールは初の看護学校を創設しました。
しかし、戦争中の激務による病いに倒れ、40歳にして二度と歩けない身体になってしまいます。
それでもめげずに病室で看護に関する活発な執筆活動を続けたそうです。

凄い、としか言えません。

先の写真の看護婦さんもそうですが、戦争体験した人が、凡そ割に合わない看護の仕事についた原動力は何だったのでしょうか?

いわゆる反戦というのでないですね。

当時私が肌で感じた看護は「愛」があった気がします。
患者の立場や状況をその身になって考えられる優しい思いやり、だけでなく患者の病いを良くしたいという強い情熱を感じました。

例えば、戦乱の中で人を想う恋愛も愛の範疇に入るでしょうが、愛は一緒に死のうという事でなく、一緒に生きようという事だと思うようになりました。


蛇足です。

豚小間の冷シャブです。茹でた水菜、豚肉、を盛り、タレ(酢、醤油、砂糖、胡麻油適宜)をかけて食べます。
トマトとシソ微塵切りで飾りました。

これから暑くなりますので涼しい料理がしたいです。
その内手抜きになるでしょうけど。


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