ちょっとご無沙汰しておりました。又、ブログを開いて読むと、住み慣れた日常生活の有難みをしみじみ感じます。
ワクチン接種も始まり、コロナ禍収束に射す光の兆しは春の進み具合と共に明るくなるようです。
一方、コロナ禍の影響は大きくて、世の中のドロドロが以前と違って白日の下に晒された感があります。
しかし、ドロドロが明るみに出た理由が、暮らしや医療への不安が社会全体に広まった事だと思うと全然喜べません。
バカみたいに能天気だった私も、自分が置かれた現実を直視するとゾッとしてまいりました。
外に出て、気持ちの転換を図るという事がとても難しくなったのですね。
そこで、もう一度読書の世界にはまり込む事にしました。
芥川龍之介が才気に任せて小説を書きまくった初期に、純粋な子供向けの作品を残した事は以前のブログで紹介しましたね。
『杜子春』は芥川作品の中で私が最初に触れたものです。
その昔の中国の春、親も屋敷も金も無くした若者のお話です。
彼を憐れんだ仙人の術により、大金を得ることが出来ましたが、取り巻きにホイホイされた挙句金を使い果たし元の木阿弥に戻ってしまいます。
打ち捨てられたような惨めな思いをした彼は、絶大な力を持つ仙術を身に着けたいと仙人に懇願するのでした。
そこで仙人は「これから、一言でも声を利いたら仙人にはなれない」と若者に言い、共に大空に舞い上がって、人跡のない峨眉山の絶壁の上に若者を放り出すのでした。
ここで魔性の者が若者を襲い、迫害を加え、ついに殺してしまいます。地獄の底に堕ちた若者は閻魔大王に責めつけられ、応答を迫られますが、決して声を出そうとしません。
さらに、畜生道に堕ちた両親の姿を見せられ、馬になった彼らを骨も砕けと拷問するのでした。
ここで声を出せば全て水の泡になります。苦しむ若者の耳にかすかな母の声が聞こえました。
「心配おしでない。私たちはどうなってもお前さえ仕合せになれるのなら、それより結構なことはないのだからね」
我慢が出来なくなった若者は、半死半生のこの馬の許に駆け寄り、思わず「お母さん」と一声を上げてしまうのです。
と若者は、再び春の夕日を浴びて都の片隅に佇む自分に気が付くのでした。
現代であればここで物語は終わるのですが、心優しい仙人は「普通の暮らしをしたい」という若者に山のふもとの一軒の家を与えるのです。
仙人が与えた「桃の花が一面に咲くのどかな田舎家」、このイメージが幼い(小学生)私の脳裏に焼き付いて憧れみたいにしてありました。
人の情を忘れたなら地位も金も空しい、自然に溶け込める長閑な暮らし、そんなユートピアへの長い夢を作ってくれたのが芥川竜之介の大正時代の作品です。
令和の今や美しい自然も絶滅寸前、一軒家も手入れしなきゃ危険だし、長生き社会になった事はいいけど加齢による体力低下で夢の田舎暮らしも難しいものがあります。
それでも、昔読んだおとぎ話のような童話は今も優しく心を癒してくれます。
杏子や、梅や桃、桜の花が一斉に咲き誇る北国の春への憧れは未だにありますけれど、この春の為に過酷な冬を過ごす体力は皆無です。
それでも、若い時の夢を修正しながら、別の夢を作っていきたいですね。