コミックっぽい装丁を誤解して、気軽に読めると興味本位で選んだこの本、鋭いセンスの本格的ショートミステリーばかりで、まさに掘り出し物でした。
文章が非常に整って語彙が豊富です。
ミステリーとしての質が高いのです。
人は、じゃなく作品は見かけじゃ決められない、の見本みたいです。
作者の蒼井上鷹をネット検索しますと、生年(1968年)と出身地、大学卒業後会社勤めを経て2005年に小説推理新人賞受賞としか記載されてません。
顔写真はおろか性別さえ分からない。徹底的にプライバシーを隠してます。
作品の中でも作者を推測する記述を徹底的に消してる。
「頭の良い人なんだなあ」と思いました。
褒め言葉ばかりでは分かりませんので、長くなりますが、ショートミステリーの中の一編を紹介します。ネタバレですが、他の59編はこの程度に面白いですよ。
『あなたは何を信じますか』
主人公は証券マンからタクシー運転手に転職した過去を持つ。
ある晩乗せた客(堺)が、ある殺人事件の容疑者として逮捕された。
堺はアパレル会社の社長、被害者は同業他社の社長である。
堺は被害者に仕事上の恨みを持っていた。他に動機のある者がいない。さらに犯行時刻に被害者宅から出てくるところを目撃されている。
しかし堺にはアリバイがある。同時刻に主人公のタクシーに乗って携帯で部下に電話しているのだ。
携帯の発信履歴、GPS情報も彼の主張を裏付ける。
ただ、これが堺の替え玉だったらどうだろうか？
警察は容疑者否認のまま逮捕に踏み切る。
タクシー運転手は車内が暗くてサングラスを付けた客が堺かどうか確認出来なかった。警察にも「堺に似た男性客を乗せたが本人かは分からない」と証言したのだ。
そこに主人公の元妻から「堺が乗った事にして」という依頼があった。
偶然にも、彼女は堺の今の恋人で彼と結婚の約束をしたらしい。
話し合いの後(ここで作者は細かい経過を何も記載してません)、決心したタクシー運転手は「自分が乗せた客は堺ではない」と証言するのだった。
(さて、ここからの記述が作者の芸が細かいので、そのまま記載します)
堺の弁護人は
「(証言の内容が)どうして変わったんですか」
「彼女に何か言われたのでは？」
「そんなことはありません」
「堺と彼女の関係は知ってましたか？」
「事件の後で彼女から聞きました」
「事件の前から知っていたのでは？」
「そんなことはありません」
「今回の事件をきっかけに彼女は堺と縁を切ろうとしていたのではありませんか」
「そんな話は聞いてません」
「彼女から、裁判で堺に不利な証言をするよう頼まれたのではありませんか」
「そんなことはありません」
弁護人は彼女がタクシー運転手の口座に100万円入金した事実をつかんで、その名目を聞いた。
「彼女から独立資金として借りました」
「10年ぶりに会った相手にいきなり借金をするとは不自然ですね。本当は堺に不利な証言をする事への報酬だったのでは？」
「そんなことはありません」
弁護人は彼女にも同じことを聞いた。
彼女の答えはタクシー運転手の証言を裏書きするものだった。
二人の証言に偽証罪に問える嘘は一つもない。
さて、ここから裁判官は疑念を抱いて~作戦通りだ~堺を無罪にした。
以上です^ - ^
つまり証拠不十分での容疑者無罪ですね。
証言者は法に触れる事は全くなく、裁判官の心証を変える作戦に成功した訳です。
サラッと読んでしまうと気づきませんが、
凄腕なのは、作者です。
こんな密度の高い作品がびっちり詰まった文庫本です。旅のお供にぴったりですよ(但しコロナ禍収束の後)。
追記:
再読して、何が「凄腕」なのか、説明を要するかな、と思いました。蛇足で野暮な説明を致します。
タクシー運転手は容疑者(堺)の婚約者の元夫でした。それを知って堺にわざわざ不利な証言をする事は十分考えられます。
ここが裁判官の心証をつく狙いどこだったらしい。
又、婚約者が事件後堺と手を切ろうとする事はあり得ます。
「彼がタクシーの乗客でない」と偽証する依頼をした、としたら運転手の証言はそれに反します。
しかし彼女は「堺が乗った事にしてくれ」と依頼しました。
真実は藪の中なので証拠不十分なのですが、
そうです。
少なくとも運転手は一つも嘘をついてはいない！彼女も事実のままを言っている。
としたら、裁判官の質問がある思い込みに基づいてされた為に、重大な事実を見逃していたかも知れないのです。
作者の文章は無駄が全然無くて頭の良い人だな、と思います。
追追記:気がつかれたと思って省きましたが、堺が真犯人の場合替え玉に自分がいつも使用する携帯を持たせてアリバイ作りをした事になります。
携帯の電波は全て異なりますからね。携帯は所有者とは別ものです。これを一緒にすると詐欺にかかる恐れがありますのでご注意(つまりスマホの個人記録を充分消さずに売買すると怖い事になるかも知れませんから)
