若い二人の歩行訓練も順調に過ぎ、片松葉で歩く段階で退院となる。
しかし、ミホは民子の脚の状態と自分のそれとが決定的に違う事に気がついていた。
民子の脚は右脚と左脚の脚長差が殆どない。患足と健足が揃った訳で目立たず歩く事ができるだろう。
しかし、ミホの手術した患足は明らかに差が開いている。ビッコを引かずに歩けるどころか、以前よりひどくなった印象があった。
権威に従順な母は決して医者に楯突く事はなかったが、ガッカリして密かに看護師に聞いてみたそうだ。
しかし、誰も答えてくれない。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/36/31/a20682e06953d7fd6469c1508fd5cacf.jpg?1631962345)
ある晩、看護婦詰所(ナースステーション)を通りかかったミホは決定的な手術の失敗の話を耳にしてしまった。
ミホの手術当日、執刀医が急な事故を起こした。臨時の執刀医がうっかりミホの健足と患足を取り違えて手術にかかったそうである。気がついた時はメスを入れる寸前。
それからの施術経過がめちゃくちゃになってしまったそうだ。
「ええ?そんな事!かわいそう」密やかに交わされた会話の中でミホの名前は一つも出ていない。
しかし手術の日時がピッタリで他に受けた患者がいない以上自分に違いなかった。
あまりのショックの重さにミホは耐えられなかった。
真実を口にしてしまうと、病院での家族的な日々、優しく強い頼りになる看護婦、温和な医師、ヤンチャな仲間との楽しい毎日、全ての思い出が醜く変わっていく気がした。
それにこの会話の内容を自分が誰かに打ち明けたとしても信用されないだろう、とミホは思った。
母は「まあ、こっそり立ち聞きするなんて、なんて下品な子でしょう」と言いかねないと、その時ミホは思ったのだ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/cc/d3d686c5aa2249997755257eb7bb530d.jpg?1631962345)
「ねえ、この頃変よ。
せっかく退院が決まったのに、どうしてそんな怖い目ばかりしてるのよ」
民子が寂しそうに言った。
傍に暗い目をした伊東君もいる。
三人だけの夜の病室はシンとしていて、どこかで生き残りのか細い虫の声が聞こえてきた。
「話してもきっと分かってくれない」
伊東君はキッとミホを睨んだ。
「話さないどいて、分からないと決めつける事ないだろう」
「分かんないよ。そんなの」
「何を!」
「良いわよ。ほっといてよ。誰もわかってくれないよ。
私結核病棟に行ってしまいたい。そこで結核菌もらいたい」
言葉に出すとミホは本気で夜の結核病棟に行きたくなった。
多分、それが分かれば検査を受ける為、又この病院に止められるに決まっている。
ビッコでも特別視もされずヌクヌクと笑って暮らせる、およそ馬鹿げた短絡的な考えがミホを支配していた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/29/a6/1a9ed389e549fa79e5e184cbbf1fba88.jpg?1631962390)
ミホは松葉杖を取って歩き出そうとした。
その時、目の前に火花が散った気がした。
一瞬の目のかすみが消えた時、そこに見たことも無いほど鋭い光を持った伊東君の目があった。
伊東君に顎をアッパーカットされた、生まれて初めて他人の男に殴られた。
(男って子どもでもこんなに力が出るものなのか)
ミホは殆ど呆然としていた。
「ダメだ。病気をなんだと思ってるんだ。
ワガママ!バカ!」
民子は殆ど泣きそうな目をして、心配そうに二人を見守っている。
その時どうやって伊東君と別れたのか、歯を磨いて顔を洗って寝床についたのか、どうやって眠りについたのか、ミホは覚えていない。
「民ちゃんごめんね」
「良いの、何も聞かない」
同じ障害がある身故、ミホの手術結果が成功と言えない事を察したのだろう。
それから、民子は何もそれに触れる事がなかった。
民ちゃんは良い子だ、それに比べて伊東君は何なのだろ。小さいと思って甘やかしてたけど不良じゃない」
ミホは伊東君とはそれから遊ばない、会っても怒った顔を見せていた。そんな反応が自分の幼い証拠だとは夢にも思っていなかった。
退院して伊東君の住所を聞いていなかったことに初めてミホは気づいた。
民子に聞いても教えてくれなかったと言う。
ミホはひどく寂しい思いにかられた。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/57/f6/d365218d906a019f55fd75f12d18f68a.jpg?1631965839)
歴史あると言えば聞こえは良いが、改築されてない古い大病院の待合室に冷たい風が吹き抜けている。
ミホは久しぶりに定期検診を受けにこの病院を訪れていた。
元通り杖も持たずに歩き、学校に通っている。
「手術受けたんでしょ。何も違って見えないけど」遠慮ない友の言葉にも慣れ切っていた。
今日で最後の検診日となる。
1年ぶりに病室を訪れ、伊東君のこと聞いたら退院したという。
やっと彼も退院出来たんだ。
ミホはほっとしたような、何か大切なものが抜けてしまったような気がした。
そして、何気なく診察室のドアを眺めたミホの視野いっぱいに広がったのは伊東君の姿だった。
おニューであろう緑色のジャンバーを着て、少年漫画の主人公そのままの彼は一心にミホを見つめていた。
その目線の強さに、ミホは自分が化石になってこのまま固まってしまうのではないかと思えた。
それはごく短い間の出来事だったようだ。
付き添いの父に促されて伊東君は黙って去っていった。
「ケッカクセイコツズイエン」
ミホは、先刻付き添いで働くおばさんに聞き出した伊東君の病名を思い浮かべた。
子どもだから安心したのか、それとも病気の正体を知らないのか、いとも気安く教えてくれた伊東君の病名だった。
「ケッカクセイコツズイエン」が結核性骨髄炎であることをミホが医学本で知ったのは、それから大分後の事である。
「他で発症した結核菌が骨を冒す病い、不治である。最終的な致死率が高い」
その当時の医学本の説明にミホは頭をガーンと殴りつけられた気がした。
あれもこれも謎が解けた気がした。
幼いと言える程若いのに、真実を知ってしまった伊東君が家で荒れた姿が目に見える気がする。
感染る事を恐れて近づかない家族、病院側で開放病棟にいれたのは感染の恐れがないからだろう。
あまりに鋭い頭、目立つ行動、老成したとも言える世間知、病院側の極端に寛大な態度。
それももはや治る見込みのない死の近い子どもに対するものだ、と思えば謎が解ける。
それにしてもあれは、自分にとって伊東君にとって「初恋」だったのだろうか?
「初恋の思い出が鍋焼きうどんとアッパーカットじゃ色気ないよね、それに初恋の相手が4歳も年下で自分より背が低いなんて冴えないね。
伊東君生きて出ておいでよ。どんなにビッコ引いててもどんな冴えないおじさんでも良いから、もう一度本物の初恋がしたいよ」
中年をとっくに過ぎたミホがどんなに呼びかけても伊東君はもう二度と現れる事はない。