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読書の森

色ガラス その4

敏恵が「部落民」の意味を知ったのは中学生になってからである。

それまでに離れていた両親が引き取りに来てくれた。ずっと後に「腐れ縁」と母は自嘲していたが、実家が世間体をおもんばかって受け入れてくれなかったのと、母を失って打ち萎れた父親に同情したのだろうと敏恵は感じた。

両親がなりふり構わず働いてる間、敏恵は転校先の同級生と風呂屋に一緒に行ったり、駄菓子屋で水飴を買ったり、祖母が決して許さなかった楽しい遊びを堂々と出来た。
生まれた時から都会も場末の子供だったように、彼女は伸び伸びと過ごせたのである。

敏恵はいずみと時々会ったが、会う度に彼女は若い娘らしく、もぎたての果実のような匂いをさせて美しくなった。
同人誌に入会して、年上の男性と付き合いがあるらしい彼女に敏恵は裏切られたような気がした。

敏恵が学校の図書室で島崎藤村の『破戒』を読んだのはその頃だった。
「人である事は変わりは無いし、優秀なのに(主人公は部落民出身だが努力して学校教師になった)何故差別されなきゃならないのだろうか?」それが一番素朴な疑問だった。
昭和30年代の初めは多分敗戦を経て価値観が180度変わった日本が一番リベラルな時代だったのだろう。敏恵はその時代の教育を何の疑問もなく享受していた。

その頃父親は、知人の伝手で町の小さな洋服店の雇われ店主となったが、売上げは伸びずアップアップしていた。そこで、母は不甲斐ない父親に代わって保険会社の嘱託として勤務していた。
敏恵は鍵っ子のハシリのような自分を惨めに思っていた。帰宅してもオヤツの甘パンがちゃぶ台に置かれているだけ。家の中ではたった一人だった。

彼女はいずみが「部落民」出身だろうが全然構わないと思う。しかし、自分を愛し庇ってくれる筈のお姉さんが全く他人でしかも羽化した蝶々のように女らしくなるのがひどく嫌だった。

「敏恵ちゃん、せっかく会いに来たのにどうしてそんなにツンツンするのさ」
持参した台湾バナナに手をつけない敏恵を寂しそうな目でいずみは呟いた。

「別に。気のせいじゃない?それにしてもいずみちゃんこの頃変わったね」
「敏恵ちゃんこそ素直じゃなくなった」
「だって、、いずみちゃん男の人からお金もらってない。上等なバナナなんか持って来て」
いずみの顔にサッと血が上った。必死に怒りを堪えて彼女は言う。
「嫌らしい事想像するなんて失礼ね!ちゃんとアルバイトしてるのよ。同人誌の人の紹介でね。出版社のアルバイトです。校正の仕事。高校生でも許可されてる仕事よ」
「なあんだ。いずみちゃん勉強出来るからね」
「あら敏恵ちゃんだって、大きくなったら軽いもんよ」
「、、、」
訳のわからない悔しさに襲われて敏恵は黙り込んだ。
(いずみちゃん前から綺麗だったけど、どうしてこんなに色白くなって、どうしてこんなにいい匂いがして、どうしてこんなに女らしくなってしまったのだろう。
私もう中学生だけど、だんだんキツくなってみっともなくなるみたい)

大人しくしてる敏恵を眺めて、いずみはゆったりと微笑んだ。
それが又敏恵にはカチンとくるのだった。
そして憎たらしいあまり黙ってようと思った事を口に出してしまった。

「ねえ、いずみちゃんちは部落民出身なの?」
いずみの紅潮してた顔からスウっと血の気が失せた。
「そんな事誰から聞いたの?」

「誰でもいいじゃない。それより本当にそうなの。私は気にしてないけど」
「気にしてないなら聞かないでよ!」
いつにないいずみの強い口調に返って落ち着いてきた敏恵だった。

「私だって転校何回もして、すっごく貧乏になって、前あったよそ行きも全部小さく汚くなってだんだん自分も汚くなって」
「敏恵ちゃん可愛いよ。いつまでも可愛いんだから」
あゝそう思っててくれたのだ。
思いがけないいずみの強い口調が、敏恵の強張っていた表情を変化させた。俯いた敏恵の目から涙が溢れ出して止まらなくなった。

そうして、心が溶けてきた時、いずみがポツンと漏らした。
「私の兄さん2年前に自殺したのよ。部落民だったからどこも就職先なくて。
それから敏恵ちゃん家へ来てないから分からないだろうけど、ホントにバラックだよ。未だ終戦後の焼け跡が残ってるかと言われたわ。それにずうっと家は夫婦共稼ぎなの。お母さん飲み屋で働いてるの」

敏恵は目を見張った。
「飲み屋って言っても新橋の大きな店よ。私が言うの変だけどお母さん綺麗だし。私のお母さんもお父さんもアイヌの末裔なんだ」
「末裔って?」
「つまり明治の初め家の先祖はアイヌ部落の村長だったのね。そこに和人、本州からの開拓民だよね、が来て子供ができて、純粋なアイヌなんて殆ど居なくなって。それでも人種差別があったんだよ」
「へええ」
「部落民ってさ、明治になって出来た言葉よ。何らかの理由で物凄く貧乏人になった人たちが他の人が嫌がる仕事、例えば屠殺だとか動物の皮を剥がす仕事とか、そう言う事で生きる糧を得てた。とても貧相な掘立て古屋が村の一つ場所に集まったのね。それを被差別部落というの」

敏恵はポカンといつにない饒舌ないずみを見ていた。
むしろ冷静に返ったようないずみは流れるような口調で、敏恵が生まれて初めて聞くかっての部落民の生活の歴史を分かりやすく説明していく。
(家の先祖と全然違うのだ)敏恵はそれが恥ずかしい事のように首を項垂れて黙って聞いていた。










読んでいただき心から感謝いたします。

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