読書の森

ツツジ咲く街 その6



薫風の吹く5月1日、杏子と多美は「のぞみ」の車内にいた。
車窓の緑は美しく、列車は快適に走っている。

しかし、期待に弾んでる筈の二人の顔は何故か冴えない。
二人共それぞれの屈託を胸に抱えての出発である。
スカッとした開放感を味わった瞬間、起こり得る困難への不安がわいたのだ。

杏子は久しぶりに対面する母の事を考えている。

子どもの頃、母は明らかに兄と自分とを差別していたと彼女は信じてた。

「お兄ちゃんは言う事をきちんと聞くのに、杏子はなぜ悪戯を止めないの?」
「お兄ちゃんはこんなに成績がいいのに。杏子ときたら」

本気で叱る母に反抗し、すぐに母に加担する父も軽蔑していた。

美人の母に似ず、秀才の父にも似ず、鬼っ子の様に扱われていると悩んだ事もあった。

京太が東京の大学に進学した年、無理を言って東京の都立高校に進学したのは、親から独立したい為だった。
「兄の世話をして悪い虫がつかない様にする」のは口実である。
事実は逆で、兄に目玉焼きとトーストの朝食を作ってもらっていた。



兄と二人で暮らした生活は快適だった。
お互いに自由を束縛する事もない。
それでいてそばに肉親がいる温もりを感じた。
いつも彼女にコンプレックスを与えていた兄がとんでもなく優しい男だという事が初めて分かった。

兄の恋人の名前も顔もわざと知ろうとしなかった。
ただ、兄が大阪で出版社を継ぐ事を決める前思い詰めた顔をしていたのを覚えている。

兄は両親の下へ行くより、ずっと好きな人のそばに居たかったのだと杏子は後から思った。
兄はずっと独身を通した。
「会社を立て直すまで」が口癖だったが、本当のところはどうだったのだろう

父の葬儀の時も兄の密葬の時も、母は茫然自失して、木偶人形の様に何も出来なかった。
杏子一人が悪戦苦闘して、事務処理も関係者への詫びも済ませた。

「どうして私一人を残して皆逝ってしまうのよ。
一生懸命尽くしてきたのに」
窶れた顔で母が悲鳴を上げた時、杏子は思わず母の頬を殴った。
「それじゃあ私は何なのよ。私はあなたの子どもじゃないか。
お母さんは自分だけが可愛いんでしょう?」

綺麗な切れ長の母の目がうるうるしている。
まるで悲劇のヒロインみたいに頼りなげな女だと杏子はその時思った。

「母さん、父さんも兄さんもあなたに殺されたのだわ。
二人を支えるどころか頼ってばかりいたあなたが悪いの」

言ってすぐに、杏子の足場が浮いた気がした。
そして目の前の華奢な母は倒れて痙攣を繰り返していた。

その後、親戚が集まって母を入院させる事になった。

何回か杏子は母の入院先を訪れたが、無表情な母が、急に恐怖に怯えるのを見て脚がすくんだ。

元の母に戻したい。
戻す責任がある。
しかし、そうすればするほど、母は自分をも悲劇に巻き込むのではないか。
理屈ではなく、その直感が杏子の脚を大阪に向けさせなかった。

居心地の良い椅子に身をもたせながら、杏子は不安を感じていた。

読んでいただき心から感謝いたします。

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