向田邦子脚本のTVドラマ『寺内貫太郎一家』ご覧になった事あるでしょうか?
昭和の頑固親父をユーモラスに描いたホームドラマでした。
ごく身近な存在だった西城秀樹さん、樹木希林さん、そしてつい最近では小林亜星さん、皆鬼籍に入ってしまいました。
今回、向田作品を読み直して
「あゝ、全て昔の事だったんだな。もう二度と帰らない」と改めて思いました。
この作品中に登場する
ダイヤル電話、御用聞き、復員服、風呂代、ネルの寝巻き、昭和中期には日常的にあったモノは今殆ど見る事が出来ません。
コロナ禍の中で銭湯や温泉へ行くなど、犯罪的になってしまいます。
懐かしいとか、切ないとか、そう思えるのは又戻れるのではないか、という微かな期待があるからであって、最早戻る術がないと思った時、それは歴史になるのかも知れません。
例えば明治、大正時代、終戦後しばらくは未だ面影を残していた、人気(じんき)も風習も建物も、歴史的遺産になる気がします。
1980年(昭和55年)、向田邦子は短編集「思い出トランプ』で直木賞を受賞しました。
翌年事故で死去してしまったのですから、一瞬の火花の美しい輝きだった様に思えます。
しかし、この小説は儚いものでない、今も変わらぬ人間関係の心のアヤを的確に描いてます。
一見平凡で円満な家族に潜む、秘密の闇、それを、簡潔に淡々と描く巧さは向田邦子ならではのものです。
はみ出してない家族などいない、なんらかの含みや屈託を持ちながら家族は成り立っているものだ、と納得出来る物語ばかりです。
自殺、不倫、離婚、殺意、おどろおどろしい出来事が彼女の手にかかると、ごく日常的な風景に隠されて終わるのです。
彼女の作品の殆どは、本当は重苦しい現実を何処をどう工夫して収めたのか、表面には見せず、平和な日々が続くように思わせて終わります。
ここが「名人」と評せられるところでしょう。
「ダウトと声をかけても、カードを裏返してくれなければ、計りようがない」
これは作品中の、死ぬ迄本心を明かしてくれない家族に対する言葉です。
「おぞましさとなつかしさが一緒にきて、塩沢は絶えかけていた香をくべ、新しい線香に火をつけた」
綺麗事では終わらないから家族なので、その微妙な愛情のバランスの中で人は生きているのかも知れません。
「家族だから自分を一番愛してるのが当然、家族だから団結するのが当然」
と思いたいのは山々ですが、実は現代はこの神話が崩れてしまった時代ではないでしょうか?
そして、短兵急に返事を急いで、裏返しで「絶望した、信じられない、憎い」と決めつけてしまう若者が多い時代なのかも知れません。
実は『鬼滅の刃』の人気はこんな時代が求める愛情や勇気が込められているから爆発的なのかと、私は思ったのです。
向田邦子が凄いのは、人間の表と裏の真実をごくさりげない日常生活の中で描いた事じゃないかしら?