私は今年、人生の一つの大きな節目を迎えました。
今から5年前にゆくりなくも病を得、5年生存率19パーセント(厚労省病期分類統計)と云われる手術を受け、多くの方々のお陰をもちまして今年を無事に迎えることができたことに望外の幸せを感じています。また、この間心血を注いで執筆をつづけてきた原稿が今年、『北里柴三郎──感染症と闘いつづけた男』(青土社刊)として成就し、新刊なったことは、作家の私にとって何ごとにも代えがたい喜びです。
2019年11月、中国中央部の武漢市で新型コロナウイルスの感染者が発生し、多くの死者を出しました。そのことを大きく報じるテレビのニュースを見ながら、私は今から百年余り前に、「感染症学の巨星」と世界から呼ばれた北里柴三郎を思い返しました。
1894年3月、中国南東部でペストに似た症状の感染者が発生し、多くの死者を出しました。このとき、日本政府の命を受けて感染地の香港に入ったのが北里柴三郎です。
北里は、当時まだ防護服はおろか、病原体から身を守る方法さえ分からなかった時代に、感染地のただ中に入り、世界で初めてペスト菌を発見することに成功。人類が永年死病として恐れてきたペストの正体を突き止め、その後の感染対策に大きな貢献を果たしました。
病原体は死ぬことも、消滅することもありません。たとえそれが終息したとしても、病原体はつねに新たな姿に変異し、より感染力の強い病原体となってまた新たな災禍と教訓をもたらすためにどこかの無防備な都市を足がかりにして再び猛威を振るいに現れます。
感染症は病原体を増殖し、拡散させるとともに、ときに私たちの内面に侵入し、差別や偏見を助長します。何億人もの無辜の命を蹂躙した目には見えない病原体に対して、人類はいかに対峙し、乗り越えてきたのか。私は人類と感染症との終わりのない闘いの実相を浮き彫りにするために、彼が生きた当時の新聞や雑誌、論文などの膨大な資料の山に分け入り、未知の感染症と闘いつづけた北里柴三郎の生涯を追うことにしました。
そうして、多くの月日を要して脱稿したのが『北里柴三郎──感染症と闘いつづけた男』です。本書は、ペストをはじめ、コレラ、破傷風、ジフテリア、結核、赤痢、ハンセン病など、これまで日本で流行したさまざまな感染症と闘いつづけた北里柴三郎の生涯を、多くの確かな資料と取材によって初めてその全容を余すところなく明らかにした書き下ろし評伝ノンフィクションです。
調査取材に当たり、私は北里柴三郎の貴重な遺品を所蔵する北里柴三郎記念館を訪ね、幸いにもそこで執筆のための多くの手がかりと確証を得ることができました。
また、北里柴三郎が発表したドイツ語論文の翻訳集『北里柴三郎学術論文集──Collected papers of Shibasaburo Kitasato』(北里研究所刊)を翻訳・監修された檀原宏文北里大学名誉教授の知遇を得、北里柴三郎研究の第一人者である檀原名誉教授に私が多くの時間を要して書き下ろしたおよそ650枚におよぶ原稿を査読していただき、「私の知る所、北里柴三郎に関する〝評伝ノンフィクション〟として唯一最高のもの」と、過分なお褒めの言葉をいただいたことは著者にとって望外の僥倖でした。
当時、北里柴三郎のまわりには、生涯交友のあった陸軍軍医森林太郎や帝国大学医科大学長青山胤通、衛生局長後藤新平など、じつに多くの著名な医学者たちがいました。そのなかで、世界から認められた唯一の日本人医学者が北里でした。
北里が他の優れた医学者たちと比して抜きん出ていたものとは何だったのか。──わけてもその最も大きなものの一つは、畢竟、北里が学生時代に医学を志した当初の熱い想いを終生変わらず持ち、追求しつづけたことにあった様に思います。
また、北里は明治政府の命を受けて、隣国・香港で発生したペスト調査に世界に先駆けて赴き、ペスト菌の発見などによってペストを早期に終息させるとともに、その後の水際対策や防疫体制の整備、治療法の確立など、人類の救命に主導的な役割を果たしました。
今日の新型コロナ感染症の諸対応を見る限り、少なくとも当時の日本の政府と現今の政府の感染症に対する対応の速さとその的確さには、雲泥の差がある様にも思います。
とまれ、本書『北里柴三郎』が、人類と感染症との終わりなき闘いの歴史を正しく認識し、再びやって来る感染症と対峙するための縁〈よすが〉となれば幸甚です。
▼『北里柴三郎──感染症と闘いつづけた男』上山明博著、青土社刊
(『脱原発社会をめざす文学者の会・第25号』脱原発社会をめざす文学者の会編・発行,2021年12月所載より)
今から5年前にゆくりなくも病を得、5年生存率19パーセント(厚労省病期分類統計)と云われる手術を受け、多くの方々のお陰をもちまして今年を無事に迎えることができたことに望外の幸せを感じています。また、この間心血を注いで執筆をつづけてきた原稿が今年、『北里柴三郎──感染症と闘いつづけた男』(青土社刊)として成就し、新刊なったことは、作家の私にとって何ごとにも代えがたい喜びです。
2019年11月、中国中央部の武漢市で新型コロナウイルスの感染者が発生し、多くの死者を出しました。そのことを大きく報じるテレビのニュースを見ながら、私は今から百年余り前に、「感染症学の巨星」と世界から呼ばれた北里柴三郎を思い返しました。
1894年3月、中国南東部でペストに似た症状の感染者が発生し、多くの死者を出しました。このとき、日本政府の命を受けて感染地の香港に入ったのが北里柴三郎です。
北里は、当時まだ防護服はおろか、病原体から身を守る方法さえ分からなかった時代に、感染地のただ中に入り、世界で初めてペスト菌を発見することに成功。人類が永年死病として恐れてきたペストの正体を突き止め、その後の感染対策に大きな貢献を果たしました。
病原体は死ぬことも、消滅することもありません。たとえそれが終息したとしても、病原体はつねに新たな姿に変異し、より感染力の強い病原体となってまた新たな災禍と教訓をもたらすためにどこかの無防備な都市を足がかりにして再び猛威を振るいに現れます。
感染症は病原体を増殖し、拡散させるとともに、ときに私たちの内面に侵入し、差別や偏見を助長します。何億人もの無辜の命を蹂躙した目には見えない病原体に対して、人類はいかに対峙し、乗り越えてきたのか。私は人類と感染症との終わりのない闘いの実相を浮き彫りにするために、彼が生きた当時の新聞や雑誌、論文などの膨大な資料の山に分け入り、未知の感染症と闘いつづけた北里柴三郎の生涯を追うことにしました。
そうして、多くの月日を要して脱稿したのが『北里柴三郎──感染症と闘いつづけた男』です。本書は、ペストをはじめ、コレラ、破傷風、ジフテリア、結核、赤痢、ハンセン病など、これまで日本で流行したさまざまな感染症と闘いつづけた北里柴三郎の生涯を、多くの確かな資料と取材によって初めてその全容を余すところなく明らかにした書き下ろし評伝ノンフィクションです。
調査取材に当たり、私は北里柴三郎の貴重な遺品を所蔵する北里柴三郎記念館を訪ね、幸いにもそこで執筆のための多くの手がかりと確証を得ることができました。
また、北里柴三郎が発表したドイツ語論文の翻訳集『北里柴三郎学術論文集──Collected papers of Shibasaburo Kitasato』(北里研究所刊)を翻訳・監修された檀原宏文北里大学名誉教授の知遇を得、北里柴三郎研究の第一人者である檀原名誉教授に私が多くの時間を要して書き下ろしたおよそ650枚におよぶ原稿を査読していただき、「私の知る所、北里柴三郎に関する〝評伝ノンフィクション〟として唯一最高のもの」と、過分なお褒めの言葉をいただいたことは著者にとって望外の僥倖でした。
当時、北里柴三郎のまわりには、生涯交友のあった陸軍軍医森林太郎や帝国大学医科大学長青山胤通、衛生局長後藤新平など、じつに多くの著名な医学者たちがいました。そのなかで、世界から認められた唯一の日本人医学者が北里でした。
北里が他の優れた医学者たちと比して抜きん出ていたものとは何だったのか。──わけてもその最も大きなものの一つは、畢竟、北里が学生時代に医学を志した当初の熱い想いを終生変わらず持ち、追求しつづけたことにあった様に思います。
また、北里は明治政府の命を受けて、隣国・香港で発生したペスト調査に世界に先駆けて赴き、ペスト菌の発見などによってペストを早期に終息させるとともに、その後の水際対策や防疫体制の整備、治療法の確立など、人類の救命に主導的な役割を果たしました。
今日の新型コロナ感染症の諸対応を見る限り、少なくとも当時の日本の政府と現今の政府の感染症に対する対応の速さとその的確さには、雲泥の差がある様にも思います。
とまれ、本書『北里柴三郎』が、人類と感染症との終わりなき闘いの歴史を正しく認識し、再びやって来る感染症と対峙するための縁〈よすが〉となれば幸甚です。
▼『北里柴三郎──感染症と闘いつづけた男』上山明博著、青土社刊
(『脱原発社会をめざす文学者の会・第25号』脱原発社会をめざす文学者の会編・発行,2021年12月所載より)