その1で沢の堀の先端部を示したGoogleマップを貼り付けてみようと試みたのだが、どうも妙なループ状態に陥りブログ編集不能になってしまうので諦めた。
さて、沢の堀から二瀬橋の交差点を通って久米川古戦場跡へ向かう。
ここもご近所はしょっちゅう通っていたが、実際に訪れるのは初めてになる。
あっ、もちろん戦場はとても広かったでしょうから実際の古戦場の上は自転車で走り回っていたでしょうけど、碑が有るところに来たのは初めてです。
八国山の東側先端部分、岬の突端みたいな場所に有ります。
背景に山を控えた静かな住宅地の片隅に有り、写真の道路の向こうが八国山の斜面です。
しばし、むかしむかしにここで合戦が有ったのだなぁと感慨にふけります。
その背景の山に登ると将軍塚が有り、近辺にはかつて「元弘の碑」が建っていた。
山口谷(やつ)久米村に狭山のつゞき八國山【野老澤村の南十二三丁にあり】というあり。駿河【ふじ】、甲斐【たば山】、伊豆【はこね】、相模【大山】、常陸【つくば】、上野【あがつま】、下野【日光】、信濃【あさま】、この八國【やつのくに】を眺望するゆへこの名ありと土人【ところのもの】いへり。また此山を将軍塚ともいふ。元弘の比新田義貞公鎌倉勢と府中分敗河原の戦ひに敗軍し隣村久米川村に陣をひき此山に屯し分敗にて踏留【ふみとゞま】り戦死せし飽間斎藤氏の為に其地【ところ】の時宗の僧を託【たのみ】、石碑【いしぶみ】を建置れしといふ。久米村に今に長久寺といふ時宗の寺あり。石碑の長さ五尺、碑面三尺五寸、横幅一尺五寸、右に圖する所のヽは梵文【ぼんじ】にて光明眞言を記せり。石の厚さ三寸程もありてき石なり。大半武蔵野中の碑は多く此石にて、土人【ところのもの】この石を秩父石といへども今秩父に見侍らず。
上記は武蔵野話の入間郡久米村についての記述です。【】は注釈や読み仮名で、斎藤鶴磯が付けたものと復刻の際に付けられたものが混ざっています。旧字体が出なかった文字もあります。
では、将軍塚脇をマウンテンバイクで登り八国山の尾根道を通ってたいけんの里へ向かいます。
つづく。
クラウドWEB
さて、沢の堀から二瀬橋の交差点を通って久米川古戦場跡へ向かう。
ここもご近所はしょっちゅう通っていたが、実際に訪れるのは初めてになる。
あっ、もちろん戦場はとても広かったでしょうから実際の古戦場の上は自転車で走り回っていたでしょうけど、碑が有るところに来たのは初めてです。
八国山の東側先端部分、岬の突端みたいな場所に有ります。
背景に山を控えた静かな住宅地の片隅に有り、写真の道路の向こうが八国山の斜面です。
しばし、むかしむかしにここで合戦が有ったのだなぁと感慨にふけります。
その背景の山に登ると将軍塚が有り、近辺にはかつて「元弘の碑」が建っていた。
山口谷(やつ)久米村に狭山のつゞき八國山【野老澤村の南十二三丁にあり】というあり。駿河【ふじ】、甲斐【たば山】、伊豆【はこね】、相模【大山】、常陸【つくば】、上野【あがつま】、下野【日光】、信濃【あさま】、この八國【やつのくに】を眺望するゆへこの名ありと土人【ところのもの】いへり。また此山を将軍塚ともいふ。元弘の比新田義貞公鎌倉勢と府中分敗河原の戦ひに敗軍し隣村久米川村に陣をひき此山に屯し分敗にて踏留【ふみとゞま】り戦死せし飽間斎藤氏の為に其地【ところ】の時宗の僧を託【たのみ】、石碑【いしぶみ】を建置れしといふ。久米村に今に長久寺といふ時宗の寺あり。石碑の長さ五尺、碑面三尺五寸、横幅一尺五寸、右に圖する所のヽは梵文【ぼんじ】にて光明眞言を記せり。石の厚さ三寸程もありてき石なり。大半武蔵野中の碑は多く此石にて、土人【ところのもの】この石を秩父石といへども今秩父に見侍らず。
上記は武蔵野話の入間郡久米村についての記述です。【】は注釈や読み仮名で、斎藤鶴磯が付けたものと復刻の際に付けられたものが混ざっています。旧字体が出なかった文字もあります。
では、将軍塚脇をマウンテンバイクで登り八国山の尾根道を通ってたいけんの里へ向かいます。
つづく。
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