こんばんは。
日にち変わり、自分の誕生日になって涙したの人生初かもしれない。
今自分で書いたほっかも、5つ前のblogに目を通し、沢山のコメントを読みながら、感無量になり………涙涙になってしまった………涙。
それでは、9月26日のblogから1週間が経ったので、その時がきたのでお話しをしましょう。。
9月26日、19時頃103歳のおばあちゃんは天国へ行きました。
なにを皆さんに伝えべく、なにを書こうと思いましたが……伝えたいことがある。
103歳のおばあちゃんから学んだこと。
自分はなんとか、お通夜だけは駆け付けることができた。
その時に来てくださった、御経をよんでくださった方。
実は、以前におばあちゃんの長女のおばさんが亡くなった時にも、御経をあげて下さった方でした。
僕が19歳の頃ですね。 その時に“プロにおばさんのためになる”と約束した別れでした。
それから、月命日でもその方が、その時におばあちゃんが住んでいた、小樽に御経をあげに来てくださっていた方。
その方を、父が捜し、今回のおばあちゃんの話を駆けつけると、最後の言葉を引き受けたいと、駆け付けてくださいました。。
その方の言葉はとても深く、とても皆様にも伝えたいのでここで、伝えます。
涙しながら聞いてください(涙)
「人間は“忘却”(ボウキャク)という忘れる生き物である。忘れることが悪いことではない。
それが人間が生きていくことには書かせないことでもある。ただ、ときには思い出さないといけないときがある。
悲しいこと、辛いこと、そんなときに母の生き様を思い出さなくてはならない。それが、母なる想いです。どのように、忘れずに思い出し、自分に刻むかなのです。
お母さんがいて、ここに沢山の子供達がいること。
30年、70年生きた人では、永く生きた人の方が辛い思い出があったのです。
ここにいる子供達よ、、親孝行とは、たまに両親に旅行をプレゼントしたりと、それも親孝行かもしれないが、、、、本当の親孝行は、両親に心配をかけないことである。
そして、結婚すると、4人の親を持つということ。そのことをわかり、大切にするということで結婚があるだと思います。
お母さんは、長女が亡くなれたときは、本当にさぞかし悲しんでいた。
そこを細々と耐えて、三女の元へ一緒に暮らし、そしてそこにいる旦那様が自らの母のように大切に労っていたことで、母は大変幸せだったと聞いています。 これからは、旦那様を大切にしっかり労って下さい!
ここに残された人達は、どの様に母の生き様を刻み込み、生きていくかなんだと。
母さんは、人の話をいつも聞いて、最後にその話についてポツリと話す様な母でした。人の悪口や愚痴を言うことは決してしませんでした。
子供5人、孫10人、ひ孫8人の沢山の母。
ときに思い出して下さい。母がいたから今の私達はいるのです。
そして、自分の体を大切にして下さい。生きるとは、必ずこのようなときがくるのです。
103歳を生きると言うことは、楽しいことだけではありません。 沢山の苦しいことを乗り越えてきたのです。
私達の今の涙は天国に咲く、蓮の華を咲かせます。天に咲く華は蓮の華のです。母を思い出し、涙を流してください。その涙が沢山の華を咲かせるのです」
この方は、おばあちゃんと永いお付き合いだからこそ、こんなにもお話しをしてくれました。
僕は、孫で10番目の一番最後の男でした。
最後におばあちゃんに手を握られながら言われた言葉は………「沢山辛いこともあるんでしょ。本当えらいね。たかしちゃん」
僕はおばあちゃんの顔をみて「なんもないよ!」と涙を堪えて答えたのが、最後の会話でした。
年末に帰り、おばあちゃんとお酒や美味しい御節を食べたおばあちゃん。
5月に帰ると、風邪を引いたと、夜中も咳に苦しむおばあちゃん。可哀想だった。
7月におばあちゃんが入院して、あんまり体調がよくないからと駆け付けて、おばあちゃんとの最後の会話。
8月14日に103歳を迎えたおばあちゃん。
全く後悔はないし、僕のおばあちゃんは伝説だ。
補聴器なし、ボケなし、二度聞き返すことはない。 新聞は毎日6時間かけても全部読む。
服を着替える、トイレ、お風呂、薬を飲む、どんなに時間をかけても全て自分でやる姿。
服は40分かかる。トイレもそれくらいかかる。でも絶対に自分でやる姿は、僕は本当にすごいと思った。
それでは、最後に飛行機を降りて、父と母に送ったMailを載せて、自分の言葉で終わりたいと思います。
『お母さん、今日はおばあちゃんとゆっくり夜を過ごして下さいねぇ。
そして、お父さんの背中をみて、自分ももっと頑張って、いこうとおもったよ!
お父さんの、自分の母のようなおばあちゃんへの優しさ、小樽の日々を毎週土日、6年も通った二人の背中は自分にとって、誇りだし、自分でもそう簡単にできることでないと、本当に感じています。
札幌の家におばあちゃんがきて更に明るくなったね。
おばあちゃんのお陰で、自分も母や父を大切にすることを気付かせてもらいました。
でも、なによりも一番喜んでいたのは、小樽のおばあちゃんであり、おばあちゃんの今日の顔を見たら、本当にお父さんやお母さん、そして沢山の人達に感謝しているんだなと………幸せそうな顔を見れた、自分は本当に嬉しかったです。
お母さんに泣くなとはいわないけど、俺のぶんもないて、おばあちゃんに天に咲く沢山の蓮の華の水にしてあげてね。
それでは、明日もあんまり体を………労りながら頑張ってね。
今度は、お父さんとお母さんに自分が親孝行をします。
お父さんにもよろしくね
あと最後に、おばあちゃんの生きた想い、おばあちゃんの生きざまは、自分の心の痛みとして強く刻んだよ。
これからも逞しく、安部家、北野家に恥じないように必死に生きます。 』
これが母、父にあてた言葉です。
僕は、次の日の火葬にはいれなかった。。
おばあちゃんに小さい頃に撫でられた、抱っこをされた、おばあちゃんの手。
最高のおばあちゃんの102歳の写真。
そして、棺の中でのおばあちゃんの最高の顔を頭に、胸に刻み帰ってきた。。
そこで前々から覚悟を決めていた、母から頂いた傷をつけたことのない体の一部………耳に刻みをいれたのです。
辛いときに、自分がふとしたとき気付けるように………誰よりも輝く“おばあちゃん”を刻んだのです。
空港について、一番泣いて泣いて、泣いて感情が全てあふれでて落ち着いてから………刻んだ、光。
おばあちゃんはずっと僕の心にいます。
伝説の五世代を生きたおばあちゃん。
このおばあちゃんの別れで、僕は更に強くなったことだけお伝えします。
(心魂)
| Trackback ( 0 )
|
|