チェリビダッケはルーマニアで生まれ、終戦直後のベルリン・フィル、またその後はシュトゥットガルト放送交響楽団やミュンヘン・フィルなどで活躍した指揮者です。レコーディングを極度に嫌い、生前にはCDがほとんど発売されませんでした。当然、どんな指揮をするのかは全く分かりませんでしたが、なぜか名前だけはよく知っていました。死後になって音質のよいライヴ録音が数多く発売され、おかげで彼の芸術・芸風に触れることができるようになったのです。
チェリビダッケの指揮するオーケストラの映像を見たことがあります。鋭い視線からくる、厳格な雰囲気が印象的でした。すぐ分かる、はっきりした特徴があります。それは、暗譜で指揮をしていることです。
古くはトスカニーニが、本番だけでなくリハーサルも、楽譜を見ずに行っていたとのことでした。
また、カラヤンも暗譜でした。のみならず、目を閉じて指揮をしているのです。
フルトヴェングラー、カラヤンという二人の巨匠指揮者のもと、ベルリン・フィルのティンパニー奏者として活躍したヴェルナー・テーリヒェンは、カラヤンの指揮姿について次のように書いています。
「~ カラヤンは自分の内面を見詰め、内面の声に耳を傾けていたのだろう。だが、私たちは彼との間に遠いへだたりを感じ、置き去りにされたと思った。オーケストラの楽員にとって指揮者との視線による接触は重要なコミュニケーションの手段なのだから。
カラヤンの閉じた眼はオーケストラに対する挑戦だったが、彼自身もそのために取り逃がしたものは少なくなかった。オーケストラの楽員にも、指揮者として無視してはならないボディランゲージがある。だらしない態度、拒否する態度、あるいは信頼と献身をこめた態度はいずれも棒振りに対するフィードバックなのである。音楽するパートナーの間で起こるすべてのことを耳だけでとらえつくすことは不可能だ。 ~」
(ヴェルナー・テーリヒェン著・高辻和義訳『フルトヴェングラーかカラヤンか』音楽之友社)
とすれば、チェリビダッケの暗譜はこれと真逆で、オーケストラへ緻密な指示を送り、すべてのことをほんの少しも「取り逃がさない」ためのものだったに違いありません。譜面を見る時間すら勿体無かったのでしょう。しかも、彼の耳のよさ、音楽的な能力がそれを可能にしたのです。
指揮者が、あの鋭い視線を送り続けたら、オーケストラの側は少しも気を抜けなかったはずです。
チェリビダッケの演奏で一番好きなのがブラームスの交響曲第4番です。シュトゥットガルト放送交響楽団を指揮したCDもありますが、より素晴らしいと思うのは晩年の演奏、ミュンヘン・フィルとの2枚です。(EMI TOCE55048/49)(Altus ALT141/2)
(つづく)