私はどこから来たんだろう...ご先祖様を訪ねて⑤

2008-11-29 17:14:22 | Weblog
 曽祖父がアマル家でなくH家の出であることが除籍謄本からわかり、父や叔父たちにH家のことを確かめると、祖父より曽祖父がH家の出で12人兄弟であった(実際は当歳で死亡した児もあり13人兄弟)ことは聞かされていたらしい。
 「じゃぁ、下田なんて小さな町には曽祖父の兄弟の子孫たち、私の遠縁はいっぱいいるんじゃないか?」と思いをめぐらした。
 そんなことも気がかりで、集めた除籍謄本を整理し200年前から現在にいたるまでの血縁図・家系図を作ってみた。
 「ひぇ~ッ こんなに親類縁者がいるのかぁ」とそこで驚かされた。
 余談だけど、ひい爺さんの名前が「常吉」、その兄弟たちの名前が佐吉、政吉、正吉、順吉、佐七、弥七など「吉(きち)」や「七(しち)」といった名前が実に多く、とてもややこしいので家系図を作ってみたところ、じいさんと同じ名前を孫につけるといった行いが江戸時代生まれのご先祖、H家の中で3代にわたって行われていた。名前を継ぐことが何かヨシ(功績のあやかり?)とされるものがあったのかな?と。まるで歌舞伎の世界(何代目○○)のようで不思議な思いをした。
 そして、祖父母の墓参りをかねて下田の菩提寺の住職を訪ね、
 「このお寺に私の曽祖父の兄弟で、H家のお墓があるのではないかと思うのですが、H佐吉・政吉・正吉・順吉・佐七さんとか兄弟が多かったので...」とご先祖探しの話をしてみた。
 「う~ん。昔のことはわからないなぁ。檀家さんの台帳など戦後に火事があって全部焼けちゃったんでね~。古いことはチョットわからないなぁ...」
 「はあ、そうですかぁ。残念だなぁ
 「でもH家のお墓ならあそこらへんにあるよッ(と指をさされ)」

 「えッ、どこですか?」
 「付いておいでッ」てなことで住職に付いていった。
 「ここら一帯がH家のお墓だね」
2列で10基ほどある区画を住職は指してくれた。 
 「えッ、ここら辺すべてですか?(もしやと思った)」
 「そうだよ」
 一番手前にあったH家代々の墓と刻まれた石塔(石碑)をみつめ、その下の上台に刻まれた家紋に目をやった。
 「おおおおお~ッ  この家紋はヒーじいさんの羽織にあった家紋やないかぁ~ もしやもしや...
 墓石の建立者そしてそこに眠る人の名前を確認しようと、墓石の後ろ(裏面)に回った。
 【参考】通常、墓石の側面や裏面には、亡くなられた方の法名(戒名)、生前の名前(俗名)、亡くなられた日(命日)、墓の建立者名などが刻まれています。
 「ああああッ~ みっけたぁ~
 除籍謄本にあったヒーじいさんの兄弟の名前、そして建立者の名前も謄本にあった子息の名前だった。
 「俗名:H佐七。建立者:H鉄三郎」 そしてそして、そこら一帯七つも八つもH家の墓があり、すべて同家紋。
 すべて墓石の裏を見て回ると謄本で見つけた名前名前の数々
 ヒーじいさんの兄弟の子孫でいっぱいだった。
 ひぇ~ッ、(遠縁になるけど) 縁者ばかりだ この辺の方々....
 そしてさらにH家の墓の一群近くに、もう墓守がいないのだろう、苔むしたU家の墓を発見した。(寺の片隅にそれはひっそりあった)
 「これはもしかしたら高祖父の実家(高祖父はU家の3男でH家に養子で入っている)の墓では?(胸騒ぎを覚えた)」
 またその墓に眠っている人の確認をしようと墓石の裏へ回たっが、刻字が摩滅・風化して俗名の判読ができなかった。
(高祖父の出であるU家の詳細はわからないので、判読できても確かめようがない。江戸や明治の時代の下田は漁港として栄えていたけど、誰が何かをするとそれが町中の人にスグ知れ渡るといった小さな町(というより村社会)だったらしいので、養子縁組の話なんかもしごく身近な人たちとの間で行われていたはず。H家の墓の一群に寄り添うU家の墓は高祖父の実家の墓である気がしてならない。「Uさんのところの佐吉ちゃんをうちの跡取りにほしいんだけどなぁ」といった縁組話なんか昔は常だったからネ。
 それら数々の墓は、祖父祖母が眠り父が建てたアマル家の墓からほんの10mほどのところにあったのです。
 ご先祖探しを本気でしなければ、私は生涯このお身内の方々とめぐり合うことはなく、祖父母の墓参りに立ち寄るだけで挨拶もせず素通りしていたであろうことを思い、無礼をお侘びしながら
「H家のどなたか、私がここに来ることをあらかじめプログラムされ(仕組まれ)ませんでした?」とH家のお墓の一群に語りかけていた。
 そのとき胸がとても熱くなっていた......誰かが私にメッセージを送っていたのだろう。
 (私事ながら、曽祖父母の墓はそこにはなく、曽祖父は下田から新島へ、そして式根島に移り住み、江戸時代式根島の開墾者として功績をたたえられ(大きな石碑もあり)式根島に眠っています)

 驚きはまだまだつづくのでした。

画像は、アマル家の菩提寺の隣の寺に眠る「唐人お吉」こと斉藤きちさんの娘時代の画像。
ご先祖探しで下田の町を歩いた際に、彼女の悲話を知りました。
当時としては長身(165cmだったかな?)でスタイルよく(記念館に等身大の人形もあるんですよ)、大変なベッピンさんです。(タイプです





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