パエストゥムに戻ります。 https://en.wikipedia.org/wiki/Paestum から
パエストゥムは、都市がルカニア人によって征服されても、BC 500までは存続し、ギリシャとオスクの2つの文化が互いに共存し繁栄していたようです。
BC 6世紀のイタリアの鉄器時代における言語のおおよその分布地
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パエストゥムの西暦1世紀からの考古学記録には、道路、寺院の建設等成長する都市の特徴が残されています。
しかし、1世紀の後半の終わりまでに、この地域は汽水域になり沈下します。しかも、エペイロス王ピュロス(Pyrrhus、BC319 - BC272、古代ギリシャのエピロス王、およびマケドニア王)が共和政ローマ、カルタゴ相手に行ったピュロス戦争(BC280 – BC275)で、ピュロスはイタリア南部のマグナ グラエキア(ギリシャ人植民都市)のターレス(現在のターラント)からローマとの戦争の支援を依頼され、これに応えたことから、パエストゥムはBC273年にローマの都市になりました。ピュロス戦争では、ギリシャとイタリアのポセイドニア人が、ローマ共和国に対抗するピュロス王の側に立っていたからです。
ca.BC 280のマグナ グラエキア(Magna Graecia、古代ギリシャ人が植民した南イタリアおよびシチリア島一帯)
ハンニバルによるカルタゴのイタリア侵攻の間、都市はローマに忠実であり続け、その後、独自の硬貨の鋳造などの特別な恩恵が与えられました。ローマ帝国時代も都市は繁栄を続け、西暦400年頃にペストのローマカトリック教区として司教区になりました。
薔薇の栽培者はローマの植民地に分散し、その結果、ラテン文学でパエストゥムの薔薇と賞賛されたバラは必ずしもパエストゥムの薔薇だけではなく、植民者によって栽培された薔薇にも同じ名前が付けられました。
その後、パエストゥム周辺での薔薇栽培は再び盛んになったのですが、プリニウスは、パエストゥムのバラについて言及することはありませんでした。
同じ期間に、コルメラ(Lucius Junius Moderatus Columella、 4 – c. 70 AD、ローマ帝国の農学家)がDe re Rustica(X、35 ff。)で、マルクス(Marcus Valerius Martialis、マルクス ウァレリウス マルティアリス、40/3/1 – 102、カラタユー出身のラテン語詩人)が(Epigrams VI、80)の中で、このローマのバラを詩的な文章で説明しているからと思われます。
パエストゥムの街は、西暦4世紀から7世紀にかけて衰退し始め、中世には放棄されました。司教の管轄区は1100年になくなりました。ナポリとその周辺地域のほとんどの住民はギリシャ語の方言を話していたようです。
衰退と荒廃は、この地の土地排水構造の変化により、それが湿地でのマラリア発生につながったようです。サラセン人による海賊行為や奴隷による襲撃も決定的な要因だったのかもしれません。
残りの人達は、数キロ離れたアグロポリのより防御しやすい崖の上の集落(ギリシャ語で「アクロポリス」または「城塞」)に移動したようですが、パエストゥムはしばらくの間、対イスラム教徒襲撃の拠点になりました。
ロバート ギスカード(Roberto il Guiscardo d'Altavilla, 1015-1085/7/17、ノルマン人の傭兵で、後に中世シチリア王国(オートヴィル朝)を建てた)によってサレルノ大聖堂建設(Salerno Cathedral、イタリア南部のサレルノ市の主要な教会で)のためにパエストゥムのいくつかの石が、採石され、切断され、再使用されました。そして、パエストゥムの場所はほとんど忘れられたのです。
パエストゥム、ピラネージ画。
ジョヴァンニ バッティスタ ピラネージ( Giovanni Battista Piranesi、1720/10/4 –1778/11/9 、イタリアの画家、建築家) )のエッチングの1つ、1778年
カンパニアの地域はパエストゥムよりも少し南に位置し、薔薇の栽培の技術でもカンパニア地方は主な競争相手でした。地面はパエストゥムよりも水はけがよく、バラの栽培に適していたため、薔薇はパエストゥムよりも良い香りがしました。さらに、かつて開花したバラ種に比べて早く開花し、開花期間が長いのが特徴でした。プリニウスは Naturalis Historia XVIII、111で、カンパニアの地を次のように述べています。
Naturalis Historia XXIX から一部分を引用;
『カンパニアの、雲に覆われた山々の下には、平野が約40マイルにわたって広がっています。この平野の土壌の性質は、表面はほこりっぽいが、下は海綿状で、軽石のように多孔質である、地上には降雨があるので、雨は浸透して通過し耕作が容易になり、利点ともなります。同時に、水分が外に漏れることがなく、内部を適度な温度に温めてくれます。土地は一年中作物が収穫でき、イタリアのアワで1回、エンマーコムギで2回播種します。それでも春には、休ませた畑では庭のバラよりも甘い香りのバラが花を咲かせます。この土地はやせ細るということがありません。だから、カンパニアでは、薔薇は他の土地で生み出されるオイルよりも多くの香りを生み出すという言い回しがされています。』
ナポリのすぐ北にある特にカプア プレネステのカンパニア産の薔薇はペストゥムの薔薇よりもはるかによく知られるようになりました。2つの地域の栽培方法は固く守られていたようです。
カンパニア(Pliny Naturalis Historia X XI 17)で栽培されていた開花が遅いDamask Rosa x damascenaは、現在我々が認識しているRosa centifoliaであり、当時Paestumで栽培されていた薔薇なのです。Rosa centifoliaは、生産性の高いRosa x damascenaに置き換えられたのです。
先に『ウェルギリウスは、農耕詩(4,119)で、パエストゥムを( biferique rosaria Paesti 2度咲きの薔薇園?)であると詠みました。』という解釈は誤りであると述べましたが、これで花期の長い薔薇の花(Damask Rosa x damascena)を指していたことがお判りいただけたのではと思います。そしてこの詩の内容をもって、ローズウォーターの製造が、パエストゥムの薔薇の名声が、紀元前1世紀の後半に広まった証拠として、『有名な詩の中に見ることができた』ともいうことができます。
しかし、R. x damascenaとR.centifoliaの二季咲きに関与する遺伝学が完全に解明されるまで、その可能性を消し去ることはできません。