Annabel's Private Cooking Classあなべるお菓子教室 ~ ” こころ豊かな暮らし ”

あなべるお菓子教室はコロナで終了となりましたが、これからも体に良い食べ物を紹介していくつもりです。どうぞご期待ください。

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2017年08月14日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ヒュー・プラット ( Hugh Plat ) のディライト・フォー・レディズ ( Delightes for Ladies ※、レディのお気に入り. 1602 ) からの引用です。

 

※ ディライト・フォア・レディズは、容姿、テーブル、私室、化粧用蒸留装置、供宴、香水、化粧水と多岐にわたる。この中にはアルコール飲料など400年経った今も使われているものがある。著者のヒュー・プラット卿 ( Hugh Plat, 1552–1608 ) は農業、発明に関する著述を残しており、他にジュエルハウス・オブ・アート( Jewell House of Art and Nature、1594 ) 、ガーデニング・フローラス・パラダイス( Gardening Floraes Paradise、1608 ) があります。 

 

14.(鉱物性)顔料
木のモルタルとペストルで火口周辺の昇華鉱床(ほとんどが硫黄でできている)4オンス、6-8時間(労力をこれに多く投入できないだろうから)費やして作った粗水銀1オンスをガラス瓶に入れて数回冷水を取り替えながら洗浄する。少なくとも一日に二回水を取り替えて昇華鉱床から出てくる塩を取り出す。7-8日すると(長い方がよい)甘いものが得られる。完成したものを白ケシのオイルと混ぜる。

 

(甘汞を作っているようです。白色の粉末で。水に溶けにくく、水銀に赤土・食塩などを水でこねたものを約600度で四時間程熱してつくります。甘汞 ( 塩化第一水銀 ) は光に当たると塩化水銀 (II) と金属水銀に分解します。水銀は中枢神経・内分泌器・腎臓などの器官に障害をもたらし、口腔・歯茎・歯にも損傷を与えます。低濃度であっても長時間水銀の蒸気にさらされると、脳に障害を受け、最終的には死に至ります。水銀およびその化合物は、特に胎児や幼児に対して有毒で、妊娠した女性が水銀に被曝した場合、発生障害を持った子供が生まれることがあり、毒物および劇物取締法で劇物に指定されています。Wiki. より)

 

ベネティアの若い頃の絵と亡くなってから3日経った彼女の顔をもう一度眺めてください。白くおしろいを塗った上に紅をさしているのがわかります。16歳頃から33歳までずーっとおしろいを塗っていると、水銀中毒になってもおかしくありません。亡くなってから長時間たってもまだ紅をさしていなければならなかった彼女に「突然の死」をなんと説明したらいいでしょう。

毒蛇を右手に持ち、右足で幼子を踏みつけているベネティアの姿を、ヴァン・ダイクはどの程度理解して描いたのでしょう。4人生まれた子供のうち3人は存命で一人は亡くなったことを示しているようですが。

  

ヴァン・ダイク画   1633-1634

 

 

 


ハーブ

2017年08月13日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ケネルンのレシピは時代を先取りした、料理人が書いた料理書とは比べものにならない興味溢れる内容です。彼は料理書に259のレシピを載せています。その内メセグリン ( ワインの中にスパイス、ハーブ、ベリー等を入れた飲み物 )とミードのレシピが117あります。ワインの中に蛇毒,サソリ毒を入れた強化ワインは一つも見あたりません。この時代は以前にも少し触れたように、精力を増強させるためにワインの中に蛇毒、蛇の臓物を入れることが流行っていました。何故そのレシピがないのでしょうか。

彼がディグビィを殺した根拠はこの一点に係っています。「料理書の半分を占めるメセグリンのレシピ」そのこと自体不自然ですが、その中に一つも「ヴァイパーワイン」のレシピが入っていないことは更に不自然だと思うのです。

 

彼のひととなりをあらわすレシピと、当時女性が凝っていた化粧品のレシピを( Delightes for Ladies ; レディのお気に入り ) からご紹介して「ヴァイパーワイン」を終えようと思います。

 

「ディグビィ卿の戸棚が開いた」から;

 

追加II. 共感の粉

共感の粉は、毎年ケネルン・ディグビィ卿の研究室で用意しているが、これから作ろうと思う。

1ポンド2ペンスで買える良質のイングランドでとれる金属硫酸塩を温かい湯に溶かし、飽和溶液を作る。底に溜まった不溶解物は濾して捨てる。印刷に使うグレイペイパーを漏斗に入れて濾す。濾したら釉を塗った入れ物に入れて表面に薄いスカムができるまでボイルする。中に何も入らないように緩く蓋をして冷たい地下室で23日保管する。上澄みを捨てると底と横に大きくてきれいな緑色のエメラルドのようなクリスタルが見える。

水気をすっかり切って乾かす。大きな平たい土器の上に広げて盛夏の時期に直射日光にさらす。夜は取り込んで昼間は雨に気を付けて外に出す。太陽の光で白くなる。潰して粉にする。再び日光にさらしてかき混ぜ、細かくて白い粉にする。篩って細かくしてさらに数日間日にさらす。白い粉が得られる。これが“共感の粉”です。グラスに入れて栓をする。翌年の盛夏の時期にまだ粉が残っていたらもう一度広げて日光にさらして美徳の効き目を得る。( 日光に晒すことで神の徳を授かることが出来ると考えているらしい )

傷を治すには布の上に血を取って粉を適量血の上にのせる。きれいな布で傷口をきれいにする。熱と寒の間の気質の状態にして血を布で巻く。それをポケット又は箱に入れておくと軟膏や貼り薬を使わずしかも痛みもなく傷は癒える。

傷が古く、熱があり、炎症を起こしているときはこの粉をお椀又は鉢に入れて冷水を満たす。この中には何も入れない。血が付いた傷にも何もつけない。痛みと炎症がなくなる。

血が出るのを止める又は傷口から又は鼻からの出血を止めるには、血を布の上に少量取って粉を適量のせる、または鉢にきれいな水を入れて粉を適量入れる。ハートマン ( Hartman ) によればこれを鼻の穴に塗ると健康を保つことができるそうだ。

 

 

 つづく。


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2017年08月12日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

あと一つケネルンのレシピをご紹介します。

卵を入れたお茶;TEA WITH EGGS

ジェスート( Jesuite ) が1664年に中国から伝えたものをウオーラー氏が語ったもので中国では次の方法で作る。卵黄2個と砂糖をよく混ぜてお茶の中に注ぎ入れる。よく混ぜて熱いうちに飲む。

外から仕事を終えて帰って来た時や非常にお腹の空いたときに、食事がすぐに摂れないときに間に合う。空っぽの胃袋に満足感を与え、体中の血管内に力がみなぎる、そして食べるまでの間しばらく保存することができる。

卵の効果を発見したウオーラー氏から聞いた話によると、熱湯にお茶を入れてそのままにしておくと, ミゼレーレ※をゆっくりと唱える間にそのハーブの土の成分が抽出される。それを砂糖または砂糖と卵に注ぐとお茶の霊的な、浸透性、親和性のある自然な成分を得ることができる。水1パイントに対して1オンスのお茶を入れると3杯できる。

 

※  時間を表現する中世からの表記方法です。ミゼレーレ(羅: Miserere、神よ、我を憐れみたまえ)は、イタリアの作曲家グレゴリオ・アレグリが旧約聖書詩篇第51篇をもとに作曲した作品で、1630年代に作曲されました。

 

お茶が初めてイングランドに入ったのは1615年に、東インド会社のリチャード・ウイックハム ( Richard Wickham ) がマカオに最上級のお茶を一壺注文した旨の手紙が残っているのが最初の記録です。

貿易商,旅行者のPeter Mundy (1600 – 1667)は旅行記Itinerarium Mundi の中で1637年に茶を福建で味わったと記録していますし、1657年にはロンドンのチェンジ・アリーのコーヒーハウスでお茶が出されました。コーヒー、チョコレート等teeと呼ばれて街通り毎に売られていました。お茶は上流階級、商人階級の人達が好んで飲んでいたようです。下の絵はアタナシウス・キルヒャー(Athanasii Kircheri, 5/2/1601-11/27/1680, 17世紀のドイツ出身の学者、イエズス会司祭。東洋研究、地質学、医学で業績を残した)が描いたお茶の木。

 

     

    China Monumentis, qua sacris qua profanis, 1667. Tea Plant.

 

アタナシウス・キルヒャーの絵はこの時代を反映しています。不安と進歩を抱えながら前を向って歩を進める人間の姿が見えます。数枚引用しておきます。興味のある方は

https://books.google.co.jp/books/about/Athanasii_Kircheri_China_monumentis.html?id=-VKNZ4SAXqYC&redir_esc=y で見ることができます。

 

 

 

 

 

 

 

つづく。

 

 

 


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2017年08月11日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

その他の脚のハシュ

脚の肉を細かくミンスしてホワイトワイン、バター、カラント、レーズン、骨髄、砂糖、プルーン、デイツ、シナモン、メイス、ジンジャー、ペッパーと一緒に煮る。フライしたマンシェットの上にサーヴする。時には卵黄を入れる。

 

素晴らしいクリームを作る

クリームを1クォート用意する。大きなメイスを1-2入れてボイルする。ボイルしている間に薄いシペットを切ってディッシュに並べる。ローズウオーターで濾して卵黄を7-8個準備してその上に砂糖を振る。火からクリームを下ろして卵の中に入れる。一緒に混ぜる。マンチットのスライスの上にのせる。冷めたら砂糖を上に削ってサーヴする。

 

トーストの作り方

三番目の方法

マンチットをトーストする。塩と混ぜてフライした卵をのせる。バターとフライしたパセリを上に振りかける。

 

丸くスペイン風に詰め物を作る

マトンの脚をウシの脂と一緒にミンスする。骨髄を四角いダイスに切る。そこに卵黄、塩、ナツメグを入れてテニスボール大の詰め物を作る。濃いブロスで2時間煮てきれいなマンチェットのトーストの上にサーヴする。Palestのボールと一緒にサーヴする。

 

メイの4つレシピはどれも、これまで中世ヨーロッパで作られてきた料理を継承したものです。マンチットの上に料理をのせる方法は、パンをお皿代わりに使っていたいわゆる“トランショワール”の延長上にあります。目新しいと言える料理ではありません。

 

         

         ステファン・フリドリン( Stephan Fridolin, 1430-8/17/1498 )作,

        ミヒャエル・ヴォルゲムート ( Michael Wolgemut,  1434 –11/30/1519 ) 印刷

 

この絵はトランショワール又は、トレンチャーブレッドと言われる、料理を受ける “ お皿 “ のお話が出るたびに引用される絵です。もともと食事風景を絵に残すことが少なく、はっきりとそれとわかる形に描かれることがないので、この絵はそういった意味で貴重なものです。

中央にこの宴会の主(領主)が後ろに招かれたお客様20名が座っています。前方左に、パンター(パン切役の召使)が、焼いてから少し(普通2-3日)経ったパンを切っています。お客様には一枚づつ、領主様には、ご覧のように、まづ2枚、その上に1枚をのせます。(少し差をつけるわけです)料理はトランショワールの上にサーブされ、料理の汁で湿ってきたら(ふにゃふにゃ)になったら慈善箱の中に入れて取り替えます。箱の中のパンは城の門の外で宴会の終わるのを待っている、下々に下げられるのです。

 

 

つづく。

 

 


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2017年08月10日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ディグビィの料理書の中から“ホワイトポット”を選びました。

 

ホワイトポット;TO MAKE A WHITE-POT

クリームを3クォート用意して、そこに卵黄を12個、卵白を4個入れる。砂糖3/4ポンドとよくかき混ぜ、挽いたナツメグ2個、塩少量、洗っておいたレーズン1/2ポンドを入れる。乾かしたマンチット(白パン)を薄くスライスする。皿に入れて火の上で乾かす。それをクリームの上にのせる。パンの上に骨髄をのせて焼く。

 

我々が知っているレシピで言うと、トロトロのオムレツの上に薄切りのパンをのせてその上に(フォアグラのように脂っぽくて軟らかし)骨髄をのせて焼いた料理です。

かなり特殊な、この時代のイングランドにはない、どちらかというとスパニッシュっぽい料理です。

 

ロバート・メイ(Robert May, 1588-1664)はイングランド内戦(1642-1651)の間に合計13の貴族家庭でシェフを勤め、1660年にThe Accomplisht Cook を著しました。中世からの料理方法を継承しつつ他のヨーロッパのレシピを数多く取り入れています。1665年には彼自身の手になる最後の版を出し、1685年には461ページからなる第五版が出版されました。

    

1685年に出た第五版の料理書を使いました。

この中からディグビィのレシピと似たものを探してみました。

 

 

つづく。

 

 

 

 


ハーブ

2017年08月09日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

「ケネルンがディグビィを殺した」と言うからには、明白な証拠を示さねばなりません。実は彼は料理書も書いているのです。料理書からその証拠を引っ張り出してみようと思います。

出版したのは、彼の屋敷で働いていた執事とその息子です。戸棚の中にあった料理に関するメモを、彼の死後発見して、本にしたのです。出版までに数年経っているのは、本を出版するだけのお金を案出するのに時間がかかったからです。是非とも世に出さねばと思って本にしたようです。

「ディグビィ卿の戸棚が開いた;THE CLOSET OF SIR KENELM DIGBY KNIGHT OPENED」という表題がついています。

 

この中から2レシピ無作為に選び出しました。このレシピと同じもしくは、よく似たレシピを同時代の料理人のレシピと比較するつもりです。なぜかというと、いかにディグビィの料理に関する知識が優れているかを示したいからです。料理人の名前はロバート・メイ。料理書の名は;「 料理の技術と奥義;The Accomplisyt Cook, or The Art & Mystery of Cookery 」です。彼は料理書の緒言の中に、かって料理人として働いていた貴族たちの名前を書いています。その中にケネルン・ディグビィの名もあるのです。さあ、どちらの料理の腕前が上?なのか、見るのが楽しみです。

 

       

        The Closet of Sir Kenelm Digby Knight Opened
            by Kenelm Digby 1669

 絵の下には ”ウインザー城にあったヴァン・ダイクのコレクションの中から取った” と書かれています。

ところで料理書の、この肖像画はまだご紹介していませんでしたよねえ。

 

 

つづく。

 

 

 

 


ハーブ

2017年08月08日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ケネルン・ディグビィについて調べていて、あることに気が付きました。肖像がやたらと多いのです。気の付いた範囲内で集めてみました。
 
     
 
             Sir Kenelm Digby, 1603-65 (BHC2658)
 
    
 
    Anthony van Dyck CreditNational Maritime Museum:915 x 710 mm
          Kenelm Digby, wearing a suit of armour
 
    
 
   Portrait of Sir Kenelm Digby (1603-1665) 1650s
Henry Stone, attributed to after Sir Anthony van Dyck 1616 - 1653
 
      
 
          Sir Kenelm Digby
   by Richard Gaywood, after Sir Anthony van Dyck
etching, 1654. 4 1/4 in.x 3 1/4 in. (107 mm x 83 mm) paper size
 
      
 
      Digby, Kenelm (1603 - 1665)
        Anthony Van Dyck,
 Graphic: 9.8 x 7.4 c / Sheet: 17.9 x 11.5 cm
 
      
 
     Digby, Kenelm (1603 - 1665)
        Print ; R. Cooper
    Anthony Van Dyck, 1599-1641 
 Graphic: 11.3 x 8.6 cm / Sheet: 25.3 x 17.1 cm
 
      

      Digby, Kenelm (1603 - 1665)
    Print; Jacobus Houbraken, 1698-1780
      Anthony Van Dyck, 1599-1641 
 Graphic: 37.1 x 23.4 cm / Sheet: 38.5 x 24.5 cm
 
      
 
      Digby, Kenelm (1603 - 1665)
        Print; P. Lightfoot
     Anthony Van Dyck, 1599-1641
Graphic: 12.7 x 9.7 cm / Sheet: 22.6 x 16.8 cm
 
      
 
      Digby, Kenelm (1603 - 1665)
     Print; Burnet Reading, fl. 1777-1822
       Anthony Van Dyck, 1599-1641 
  Graphic: 13.5 x 10.7 cm / Sheet: 21.7 x 13.4 cm
 
ヴァン・ダイクによる、印刷物に使う肖像画がほとんどですが、こんなに多くの肖像画がどこに必要だったのだろうと思うのは私だけではないでしょう。
 
 
 
つづく。
 
 

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2017年08月07日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン
ケネルンはベネティアを毒殺したのではと私は思っています。非常な嫉妬心を持つ男のようです。事にベネティアに対しては特別です。
 
年に500ポンドの金とは、今でいえばどのくらいの価値があるのでしょうか。
Nominal Annual Earnings for various Occupations in England and Scotland", Data by Jeffrey G. Williamson, 1982 によれば、1700年代の上級官吏が70ポンド/年、技術者が45ポンド/年、一般労働者、農業従事者が20ポンド/年、伯爵はざっくり言って二万ポンド位です。500ポンドをどのように評価すべきでしょうか。その毎年入ってくる500ポンドと引き替えにケネルンは嫉妬心を買ったといえるかもしれません。
      

   年代     1710   1737   1755   1781   1797   1805   1810   1815
 
    職業
警官 警備     13.28  26.05   25.76   48.08   47.04   51.26     67.89  69.34
     教師                15.78    15.03       15.97      16.53      43.21     43.21       51.10      51.10
建築労働者            17.78     17.18      17.18      21.09      30.03      40.40      42.04      40.04
一般労働者            19.22     20.15      20.75      23.13      25.09      36.87      43.94      43.94
下級官僚               21.58     28.79      28.62      46.02      46.77      52.48      57.17      60.22
   鉱夫                  22.46     27.72      22.94      24.37      47.79      64.99      63.22      57.82
建築業者               28.50     29.08      30.51      35.57      40.64      55.30      66.35      66.35
 織物師                 33.59     34.28      35.96      41.93      47.90      65.18      78.21      67.60
 造船業                 36.26     37.00      38.82      45.26       51.71      51.32      55.25      59.20
   技師                 40.73     41.56       43.60      50.83      58.08      75.88       88.23      94.91
印刷業                 43.29     44.17       46.34      54.03      66.61      71.11      79.22       79.22
  書記                  43.64     68.29       63.62     101.57    135.26    150.44    178.11     200.79
外科医師             51.72     56.85       62.02      88.35     174.95     217.60    217.60     217.60
高級官僚            62.88      84.04      78.91     104.55     133.73     151.09     176.86    195.16
 聖職者              99.66     96.84       91.90     182.65     238.50     266.42     283.89     272.53
 弁護士             113.16    178.18    231.00     242.67    165.00      340.00     447.50     447.50
測量技師            131.09   122.37    137.51     170.00     190.00     291.43     305.00     337.00
 
            ( 数字はポンド/年を示します )
Data by Jeffrey G. Williamson, 1982
Data in pound sterling per yearJeffrey G. Williamson, "The Structure of Pay in Britain, 1710-1911", Research in Economic History, 7 (1982), 1-54. から一部分を引用させて頂きました。
 
オーブリーの 'BRIEF LIVES' によれば、リチャード・サックビルは1624年に亡くなったのですが、残された子供とベネティアのために年金が支払われたのです。後を継いだ4代ドーセット伯爵は夫婦を一年に一度屋敷に招きました。ケネルンが立つその横で彼は夫人の手にキッスをし、滴るばかりの欲望に満ちた眼差しで彼女を見つめていたと書き残しています。
 
( リチャード・サックビル、ベネティア、ケネルンの三人の関係は、1625年の二人の結婚以前の、少なくとも、スタンレィがロンドンに来てから以降7-8年間のいきさつを知らないと、はっきりと分からないようです。

ベルヴォアールのラトランド伯爵がスタンレィの肖像画を一枚所持していたようです。そのようなこともケネルンをして嫉妬に駆らせた原因だと思います。当時の、肖像画に込めた思いは今のそれとは異なるようです。「肖像には魂の一部分が宿る」と考えていたのかもしれません。臨終の姿を現世に写し取ったのも、かって生きていた人との交流手段であると考えていたのかもしれません。)
当時の死生観はどのようなものだったのでしょうか。1600年代、死生観、イングランドと言えば、シェイクスピアのハムレットが思い浮かびます。
 
ハムレットの三幕第一場は「To be, or not to be :  that is the question : 」の有名なセリフで始まります。つづく「死は……ねむり……に過ぎぬ。 眠って心の痛が去り、此肉に付纏ふてをる千百の苦《くるしみ》が除かるゝものならば…… それこそ上もなう願はしい 大終焉ぢゃが。……死は……ねむり……眠る」というセリフは当時の「死」に対する考えを代弁しています。

( 眠りには二種類;目覚めることのある「眠り」と目覚めのない「眠り」があり、二つを区別しないのが上の考えです。 )
 
中世の死生観とはやはり少し異なります。しかし、重罪人は四肢をばらばらにする、燃やすなどの対処を取っていることから、骨に霊魂が眠るという考えはまだ少し残っているようですし、死者の世界と生者の世界は緩やかに繋がっているかも知れないという思いもまだ、これも少し存在しているようです。「緩やかに繋がっている」とは、往来ができるという意味です。
   
 
                            
                                        The gravedigger scene  Eugène Delacroix, 1839
 
墓掘り人がハムレットに子供の頃に葡萄酒をかけられたヨリックの髑髏を拾い上げて、「これ、此髑髏《しやれこつ》は、 二十三年も土の中に入ってをりますのぢゃ。」と喋りかける。
ハムレットは髑髏を手に取って「見せい。はれ、不憫なヨリック!……ホレーショー、予《わし》は此者をば存じてをったが、 戲謔《むだぐち》にかけては眞《まこと》に窮極《きわま》る所を知らぬ、いや、拔群な竒想《おもひつき》に長じた奴。 予《わし》をば幾千度も背に負ふて歩いたものぢゃ。」と語りかけるのです。そこには霊魂が眠っている髑髏に対する恐怖心もなければ畏怖の念もない、きわめて「カラットした」空気が流れているのです。これには当時の、少々のことでは驚かない、芝居慣れした観客も度肝を抜かれたようです。ハムレットと言えば先代のハムレットが幽霊となって現れるシーンと、オフィーリアの入水場面、それにこの髑髏を事も無げに見つめるシーンが特に印象に残る場面です。絵はドラクロアが描いたものですが、当時の雰囲気をよく伝えています。
 
 
 
 
 
つづく。
 
  
 
 
 
 

ハーブ

2017年08月06日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ケネルン・ディグビィとはどのような人間なのでしょう。モン・デ・ルース男爵には最初から勝ち目がありませんでした。結果は最初から見えていたのです。それよりも、男爵はこんな危ない男を何故パーティに呼んだのでしょうか。今のフランス王はルイXIII世の母親はメディチ家のマリア・デ・メディチ(Maria de' Medici)で、彼女の三女はイングランド王チャールズの妃アンリエット・マリーです。息子にはチャールズ世とジェーム世の2人がいるのです。 

今も昔も、フランスには親イングランド派の人々がそこら中にいるではありませんか。(フランドル地方はローマ時代から毛織物の産地として知られた地でしたが、11世紀以降イングランドから羊毛を輸入するようになってフランドルの毛織物は他を圧倒するようになりました。当然フランドルとイングランドとの結びつきは強く、親イングランド派が多く暮らす土地柄です。)

 

ディグビィが頭を激しく振ったあの瞬間に、彼はフランドル経由でイングランドに帰る自分の姿を既に見ていたと思われます。彼は、行動に取りかかる前に幾通りかの解決策を頭の中に描いてから実行に移すタイプのようです。( 国王を第一に考えての行動か、自分の思いを通すことを第一に考えていたかは、今は断定できませんが、そのうちわかるでしょう。) いずれにしても、彼の行動からは親父のエバーアード・ディグビィの二の舞は踏むまいとする強い思いがひしひしと伝わってきます。


  

  

 

つづく。

 

 

 


ハーブ

2017年08月05日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ディグビィは政治家、武人としての一面もありました。

 

科学者である一方、外交官であり、時には海賊となったディグビィも、1625年、ベネティア・スタンレィと結婚。その後、ジェイムズⅠ世の英国枢密院のメンバーとなるのですが、ローマンカソリックであることが政府役人として妨げになると判断すると、英国国教会の信徒に転向します。ベネティアをなくした彼は、1635年再びカソリック信徒に戻り、パリに逃亡します。一時期、スコットランドに監督制を設定するために、チャールズⅠ世に請われて帰国しますが、1641年再びフランスへ渡ります。そこで事件が起こったのです。

 

        

          Sir Kenelm Digby wins in a Duel. 1641.

左側がケネルン・ディグビィですが、この絵は実際とは少し違うのではと思っています。剣の使い手であったディグビィは、手合わせを三回した後、相手の疲れを待ってから、突いてくるところをかわして、懐深く入り込み、相手の左頸動脈を狙って脇腹下から剣を突き立てたのではと考えます。

 

1641年に開かれた夕食会でモン・デ・ルース男爵( Count or Baron Mont de Ros )が乾杯の掛け声を発しました。「世界一の嘘つきで臆病者…..….の健康を祝って乾杯!」 乾杯がなされる前にディグビィが名前を遮りました。ルースはディグビィに話しかけました。「イングランドの王というつもりだった。」ディグビィは怒りのあまり激しく首を振り、口から出る言葉を何とか思いとどまり、パーティの最後になって彼を翌日催す夕食に誘います。

夕食の席上、ディグビィは乾杯の声を上げます。「………最も勇敢なる王。」 乾杯が終わると宣言しました。「イングランド王、我が主君。」 モン・デ・ルースは笑いながら昨夜の無礼を詫びたのですが。ディグビィはルースに寄りかかり、呟くのです。「一対一の決闘を申し込む、お前は自らの口に、私は我が王の為にこの身を捧げるのだ。」 夕食が終わるや否や二人は外に飛び出し、ダブレットを脱ぎ捨て剣を抜きました。

三回とも両者ともよく戦いましたが、四回目にディグビィの剣は相手の防具を突き破り、胸を抜き、首を貫通したのです。決闘はフランスでは禁じられていました。仕返しを恐れたディグビィはフランス王ルイXIII世に申し出て許しを請い、1642年フランダース経由でイギリスへ戻るのです。

 

つづく。

 

 


ハーブ

2017年08月04日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

     

    Robert van der Voerst after Anthony van Dyck - Sir Kenelm Digby, 1636

ケネルン・ディグビィとはどのような男だったのでしょうか。彼には二面性があります。

一つは学者としての顔です。彼は英国学士院の設立メンバーの一人でもあり、1622-1633年にはその評議委員を務めていました。数学者ピエール・ド・フェルマー(1601-1665)との書簡の中にピエールによる無限降下法による数学的証明が残されており、これは注目すべきことです。

王立協会(The Early Publications of the Royal Society)から植物の植生(Discourse on plant vegetation, 1667)に関する本を出すなど植物学者としての顔も持っていました。特に1661年植物の生育に関する論文では、植物の維持に欠かせない物質としての酸素に言及し、この分野では歴史上始めての人物です。しかし、古い時代の影も引きずっており、膨大な時間を占星学と錬金術に費やしています。その中でも注目すべきは、類感力に関するものです。類感呪術に属する考えで、占星術に基づいて作ったパウダーを患部ではなく、傷を与えた部分に塗るとその傷が癒えるというものでした。(この本は29版を重ねるほど評判でした。)この考えは、現在のホメオパシー代替医療につながるもので、一部の人達に盲信されているばかげた考えです。


つづく。



ハーブ

2017年08月03日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

   

           Lady Digby, on Her Deathbed 1633. ヴァン・ダイク画 

ベネティア・ディグビィの突然の死に大きな疑いの目が向けられました。若い、美貌の、それも廷臣の一人が33歳で突然世を去ったのです。

部屋付きのメイドが1633年の430日の夜に、夫人がベッドに入るのを確かめ、その翌朝 ( 5/1 ) 、夫人を起こそうと部屋に入ったところ、部屋を出た時と全く同じ姿で夫人がベッドの上に横たわっていたのです。

2日後 ( 5/3 )、ディグビィは夫人の頭、腕、脚を石膏で固め、友人のヴァン・ダイクを呼びます。ベッドのそばで絵筆を持たせます。

あまりに疑問の残る死に対し、チャールズ世は検死の命令を出します。ディグビィは夫人がこの8年間頭痛を訴えていたこと、そのために毒蛇、蛇毒を入れた飲み物を取っていたことを明かします。頭蓋骨を開けると萎縮した脳が出てきました。脳溢血が原因で亡くなったと結論付けられましたが、あまりの突然の死と、それに伴うケネルンの異様な行動に対して憶測を交えた噂話が広がりました。” ディグビィが殺したのではないか ” と。


つづく。



ハーブ

2017年08月02日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ベネティアを描いた絵は4枚あります。うち一枚は先にご紹介した、ピーター・オリバーが描いた19歳のベネティアとヴァン・ダイクが描いた家族4人の絵、寓意に満ちたベネティア、死の床に眠るベネティアの絵です。3枚目の絵 ( 下 ) に注目しました。

顔の部分を拡大しました。


         

 

ステュアート朝( Stuart dynasty ; 1371-1714までつづいたスコットランド起源の王朝 )では、女性は蒼ざめた顔と大きく開いた胸を誇張するために鉛白粉にビネガーを混ぜたものを塗っていました。若者の透き通る肌を模するために、網状の静脈を描いたり、鉛で作った櫛を使って眉を濃くしたり、コチニールを沁み込ませたスパニッシュウールやスパニッシュペーパーを使って唇や頬に色を付けたりしました。皮膚の上には卵白を塗ってこれらの仕掛けが見えないようにしていました。まるで磁器のお人形です。

( 中世後期からルネサンス期にかけてイタリアを中心に、顔に鉛白紛を塗り、その上に頬紅を加える化粧方法が流行しました。このメイク法は18世紀にかけてヨーロッパ全域の王侯貴族に男女問わず広がり、鉛白粉を使う上流階級層に流産や死産が多かった原因だと言われています。コチニールは製造過程で虫体の一部分が赤色色素の中に残ることがあり、それが原因でアナフィラキシーよる喘息、ショックがおこります。お化粧は女性が自発的にするものなのか、それとも男が強制的にさせるものなのか。時代の流れの中で仕方なく化粧をしていた女性もいたのではないか、特にこの時代は。と思ったりしていますが、ベネティアはどうだったのか、謎は深まります。)

奇跡に近い美しさを求めて、焼いた毒蛇の内臓を蛇毒ワインに入れて飲むこともあったようです。オーブリーは “ BRIEF LIVES “ の中で、ケネルンがベネティアに蛇毒ワインを飲むように数年にわたって強要していたと書き残していますが、化粧と同じでどちらの意志で飲んでいたかは明確ではありません。ただ彼女は敬虔なキリスト教徒であったし、結婚期間中ずっと潔白であるように振る舞っていたようです。そうして、一日の内少なくとも数時間は祈りを捧げて、また、フランシスコ会に属していてロンドンの貧しい人たちを見舞っていたのです。彼女はカードをしていてツキがあった時,儲けを貯えて積み立てる慈善活動をしていました。

( キリスト教徒にとって、自殺行為は神を裏切る行いですから、蛇毒を飲むことが死に直結するかもしれない行為であることを知っていれば、決して飲まなかったでしょう。何故飲んでいたのか、何故飲まねばならなかったのか疑問が残ります。)

 

 つづく。

 


ハーブ

2017年08月01日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

   

Edward Sackvile, later 4th Earl of Dorset, c. 1614, by William Larkin.John Hoskins, 1635 

リチャード・サックビル、4ドーセット伯爵( 1591 –7/17/1652 )

 

子供は;

1. Hon Richard Sackville, later 5th Earl of Dorset

2. Hon Edward Sackville  ( killed sp. at the Battle of Kidlington 11 Apr 1646; bur. at Wytham, co. Berkshire ) がいました。

 

彼はこの時代の“ハンサムな男“を代表するような男で、16138月エドワード・ブルース、スコットランド貴族キンロス卿世と決闘します。決闘の原因はベネティア・スタンレィです。(理由は聞かないでやって下さい。つまらんことです。)オランダ南部のベルヘン・オプ・ゾームで行われました。介添人はディグビィが務めました。サックビルは相手の胸を二突きしましたが、指を失いました。生き残ったものの、結果は惨めでした。ベネティア・スタンレィはディグビィと結婚することになるのです。サックビルとディグビィの友人関係をこの後も長く続いたということですから、彼は本当に”ハンサム”な男だったのでしょう。

  

    

リチャード・サックビル、5ドーセット伯爵Richard Sackville, 5thEarl of Dorset , 9/16/1622 – 8/27/1677 )

 

ベネティア・ディグビィと間違えた、あのフランシス・クランフィールド( Frances Cranfield, Lady Buckhurst , 1622-1687Lionel Cranfield, 1st Earl of Middlesexの娘 ) の夫です。

 

ベネティア・スタンレィが数奇な運命を過ごしてきたことは理解できましたが、絵の下に書かれた “ Lady Venetia Digby “ の謎はまだ解けません。しかし、「小画像」がいずれも小さなペンダントにしつらえられているのに対して、ヴェネティアのそれは肖像画です。依頼してペンダントにしたものに名前の明記は必要ありません。故意に名前を張り付けた裏には、ある意図があってのことでしょう。


つづく。


 

 


ハーブ

2017年07月31日 | ヴァイパー(毒蛇)ワイン

ベネティア・スタンレィを巡るお話を少ししておこうと思います。

それには、リチャード・サックビル、ドーセット伯爵の家系を説明しておかねばなりません。2代ドーセット伯爵 ( 1561–1609 ) には6人の子供がいましたが、そのうち2, 3番目の息子たちが3代目、4代目そして4代目の長男が5代目伯爵家を継ぐことになります。

 

3代目ドーセット伯爵からお話を始めましょう。

     

リチャード・サックビル、3代ドーセット伯爵 ( Richard Sackville, 3rd Earl of Dorset ( 3/18/1589– 3/28/1624 ) はジョン・オーブリーが噂した年金500ポンドを払ってくれるベネティア・スタンレィの庇護者です。彼には他に自分の随行員であるトーマス・ペニストーン卿の妻、マーサ・ペニストーン( Martha Penisstone )を愛人にしていました。

(こういったことはよくあることで、嫉妬心を激しく燃やす夫もいれば、これがもとで出世できたと喜ぶ夫もいたのです。ここは腹を立てずに、この時代はこんなものだったと理解して読み進んで下さい )

 

つづく。