西郷隆盛 像
東京都台東区上野 上野公園
薩長同盟、王政復古の大号令を成功させ、徳川幕府を倒幕に傾けさせ、江戸城無血開城を実現し、坂本龍馬、桂小五郎らと共に、明治維新の原動力となった西郷隆盛が文政10年12月7日に生まれました。
薩摩藩の最下級の武士の家に生まれた西郷隆盛は、自らが提出した農政意見書を読んだ藩主 島津斉彬により引き立てられ、斉彬、江戸参勤の折りに同行、江戸の薩摩藩邸において、庭方を命じられました。
藩主 斉彬により世に出た西郷隆盛は、主君 斉彬の命により、次期 徳川将軍家の跡目候補に水戸 徳川家の一橋慶喜を推す活動を展開し、主君 斉彬の病没後、時代が徳川幕府を倒す倒幕へと向かう中で、薩長同盟、幕府を挑発する御用盗の指揮、王政復古の大号令と成功させ、1868年1月3日、ついに新政府軍と幕府軍が激突、鳥羽伏見の戦いに勝利します。
西郷は東征大総督府参謀として軍勢を率いて江戸を目指します。
恭順の意思を示して謹慎する徳川慶喜を討つべく、なおも江戸へ進軍する西郷に対して、駿府城下で幕臣 山岡鉄舟が西郷を訪ね会談。
そして江戸城無血開城の偉業を山岡鉄舟、勝海舟との会談で実現しました。
明治維新の功労者となった西郷隆盛ですが、明治新政府とは水が合わなくなり、かつての盟友 大久保利通らと政策的にことごとく対立し、故郷の鹿児島に帰ります。
しかし新政府の政策により噴出した全国の不平士族、とりわけ西郷の故郷、鹿児島の不平士族は西郷隆盛を担ぎ出して新政府の火薬庫を襲撃したことを引き金に新政府との戦争が勃発します。
維新の功労者 西郷は、最後の内戦となる西南戦争の総大将として明治新政府軍と戦うも敗れ、鹿児島 城山で銃弾を浴びて負傷し、別府晋介の介錯で生涯を終えました。