奈良県奈良市西ノ京町 薬師寺 玄奘三蔵院伽藍
玄奘(げんじょう)三蔵法師
三蔵法師といえば、日本では西遊記で知られる経典を天竺(主に現在のインド)まで求める旅をした隋国(主に現在の中国)の僧侶ですが、
三蔵とは…〜釈迦の教えとなる【経】。
仏門に入った者が守る法〜戒律の【律】。
そして経と律を学び、研究した【論】を究めた高僧のことを表し、一般に大勢の三蔵法師がいましたが、玄奘三蔵は特に優秀な僧で、また、
日本で語られる西遊記の三蔵法師といえば、玄奘三蔵のことを表します。
西暦602年、玄奘三蔵は陳氏の4男として誕生しました。俗名〜陳褘(ちんい)。
同時代、日本は推古天皇の時代。
仏教伝来から丁度 半世紀、日本で最初の官寺〜四天王寺の創建から10年という頃でした。
陳褘が10歳のとき、役人だった父が亡くなり、出家していた次兄に引き取られるも、幼いため入門は叶わかったものの、間もなくその優秀な片鱗を見た住職により許され、僧侶として認められ出家、法名を玄奘(げんじょう)と改めました。
青年僧侶に成長した玄奘三蔵は、次第に修行を重ねるにつれて高僧による経典の教えに疑問を抱きはじめ、やがて釈迦の生誕地である天竺(インド)へ赴くことを決心しますが、国は隋国が滅び、唐国へと王朝が変わった時期で、鎖国政策により出入りは厳しく制限されました。
出国への嘆願も効果はなく、時は過ぎて行き、
西暦629年、玄奘三蔵が27歳になった年に意を決して秘かに出国します。
今も伝わるシルクロードの一部である河西回廊を経て唐国から隣国、高昌国(モンゴル南部との国境沿い〜現在のトルファン)に入ります。高昌国では敬虔な仏教徒である国王に気に入られ、20年分の金銭と4人の従者を与えられ、その後の旅は砂漠での暑さ、寒さに飢えと渇きで過酷を極め、盗賊にも度々襲われ、タクラマカン砂漠(現在の中国、新疆ウイグル自治区)、タシュケント(現在のウズベキスタン首都)、サマルカンド(現在のウズベキスタンの古都)、バーミヤーン(現在のアフガニスタン中央)からヒンドゥークシュ山脈を越え、ヒマラヤ山脈を沿って旅を続け、ついに天竺(インド)にたどり着きました。
天竺に入った玄奘三蔵は、ガンダーラ、カシミールを経由して釈迦ゆかりの地をめぐり、仏教最高の学問所であるナーランダ僧院へ赴きます。
多くの学僧と凌ぎを削る中、学識の深さで最高の学僧といわれた戒賢(シーラバドラ)の下で学び、やかて学識を認められた玄奘三蔵は雑役を免れ、5年間この僧院で学んだ後、約3年をかけてインド半島を周遊して再び僧院に戻って学び、帰国を決意します。
唐国への帰国を決意した玄奘三蔵は、仏像、仏舎利、サンスクリット語(梵語)の経典に至っては、657部という膨大な数の経典を携えて帰路につきます。
玄奘三蔵の帰路の旅路も数々の苦難がありましたが、立ち寄った国々は大小128ヶ国、歩行距離は3万キロに及ぶ長いものでした。
西暦645年、玄奘三蔵は唐国の長安の都に帰ります。
厳罰を覚悟しての密出国での旅は17年もの年月をかけ、すでに仏教の高僧として他国の国王からも尊崇される玄奘三蔵の帰国は、唐国の時の皇帝、太宗は大いに喜び、出迎えの役人を国境に遣わしました。
玄奘三蔵の帰国した645年は、日本では中大兄皇子(後の天智天皇)、中臣鎌足が専横を極めていた蘇我蝦夷、入鹿父子を成敗した〜乙巳の変(
いっしの)変〜に始まる大化の改新が起こる年となります。
玄奘三蔵は帰国後、持ち帰った膨大な量の経典の翻訳に生涯を捧げます。
皇帝 太宗は多くの国々を往き来した玄奘三蔵へ政治への参加を求めるも、玄奘三蔵の翻訳の熱意に理解を示し、全面的な支援を惜しみませんでした。
玄奘三蔵は帰国後、主に大般若経600巻をはじめ、74部、1335巻の翻訳を残りの生涯を賭けて
行ないます。
死の間際まで翻訳に打ち込み、玄奘三蔵が旅を決めるきっかけとなった唯識学は、その教えを一番弟子の慈恩大師に託しました。
現在、日本で読経される般若心経の基礎となったのは、玄奘三蔵が訳した新訳とされる翻訳です。
大般若経の翻訳終了後から百日後の664年3月7日、後の日本仏教界にも多大な恩恵をもたらした玄奘三蔵は62歳でこの世を去りました。
1942年 昭和17年の太平洋戦争の戦時中、中国 南京に駐屯していた日本陸軍により玄奘三蔵の墓が見つかり、遺骨を持ち帰りました。
三蔵の遺骨は戦時中ということで密かにされ、戦後、明らかになると、埼玉県岩槻市(現在。さいたま市岩槻区)の慈恩寺におさめられていた遺骨を薬師寺が分骨を受けました。
平成の世となった1991年 平成3年、三蔵の遺骨を守る玄奘三蔵館が建立されました。