20歳過ぎ(当時まだバブルの雰囲気が冷め遣らぬ頃)ぐらいだったか、アルバイト先の店長に『致知』という雑誌の定期購読1年分をプレゼントしてもらったことがありました。その雑誌に頻繁に出てきた「木鶏」の話を紹介します。 (※安岡正篤『人物を修める』致知出版社刊/荘子-外篇[達生][9]より)
紀渻子という人が闘鶏の好きな王のために軍鶏(しゃも)を養って調教訓練しておりました。
そして十日ほど経った頃、王が「もうよいか」とききましたところが、
紀渻子は「いや、まだいけません、空威張りして『俺が』というところがあります」と答えました。
さらに十日経って、またききました。
「未だだめです。相手の姿を見たり声を聞いたりすると昂奮するところがあります。」
また十日経ってききました。
「未だいけません。相手を見ると睨みつけて、圧倒しようとするところがあります。」
こうしてさらに十日経って、またききました。そうすると初めて
「まあ、どうにかよろしいでしょう。他の鶏の声がしても 少しも平生と変わるところがありません。
その姿はまるで木彫の鶏のようです。 全く徳が充実しました。もうどんな鶏を連れてきても、
これに応戦するものがなく、 姿をみただけで逃げてしまうでしょう」と言いました。
人物を修める (致知選書) 致知出版社
夢希望に溢れる若者(笑)だった自分には、安岡正篤先生の言葉は本当にインパクトがありました(もちろん今でも!)。あの雑誌のお陰で東洋思想にのめり込んで行ったようなところがあります。人にしても、物や本にしても、何事も出会い(ご縁)って不思議です。
最近になって、ある人に言われました「人生はどんな大人に縁するかが問題だよ」って…。当時の店長には今でも感謝しています。自分も年だけはとって来たけど、まったくもって大人になれているのかどうか怪しいです(汗)。「木鶏」のようにありたいものです。
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