1.小野小町の実像に迫る
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌」~貴公子たちの恋~ からの抜粋簡略版
小野小町の名を知らない人はいない。しかし、その驕慢(きょうまん:おごり高ぶって、人をあなどること)華麗な恋の伝説と老残襤褸(ぼろ)の放浪伝説に彩られた小野小町の実像に少しでも近づこうとするなら、歌集を繙(ひもと)いてその歌に接するしかないだろう。
歌集は恋の歌に埋まっているとはいえ、世間の噂を気にして悩ましい小町もいるし、夢の中で逢う恋にときめく可憐な小町もいる。恋人から忘れられたり、心変わりされたりして悲しむ小町もいる。
そうした中にいかにも色好みの女の典型をみるような、華やかな恋の挑みの歌が二、三まじっているのが、伝説に発展する小町の片鱗をうかがわせて何とも魅力的だ。
詞書の詳しい「後撰集」で見よう。
いその神(上)といふ寺にまうでて、日の暮れにければ、
夜明けてまかり帰らむとて、とどまりて、この寺に遍昭
侍りと人の告げ侍りければ、物言ひ心見むとて、言ひ侍
りける
岩の上に旅寝をすればいと寒し苔の衣を我に貸さなん 小野小町
返し
世をそむく苔の衣はただ一重貸さねば疎しいざ二人寝ん 遍昭
鮮やかさ、華やかさ、目もさめるような応答である。遍昭(へんじょう)は良岑(よしみね)宗貞、仁明(にんみょう)天皇の蔵人頭(くろうどのかしら)として側近に仕えた人であるし、小町も同天皇の宮人であった。宗貞が天皇の死に準じて出家し遍昭となったのは嘉祥三年(850)、三十五歳、仁明天皇四十一歳である。
小町は何歳ぐらいだったのか。すでに宮中を出て自由なくらしに入っていたものと思われる。「大和物語」によれば、出家した良峯宗貞は比叡山に上る前で、みすぼらしい身なりで、ただ読経の声はいかにも尊げに陀羅尼(だらに)を読んでいたと劇的に書いている。小町とはむろん知らない間柄ではなかったはずで、この歌もよく気心を知り合った親しい仲の贈答とみえる。
たまたま同じ寺に籠っていた歌友に、「ここ石上(いそのかみ)の寺にお籠りしていましたが、その名のとおり石の上の旅寝はとても寒いです。あなたの衣を貸してください」と申し送る。出家して修行中の歌友に、その衣を着たいということは明らかに戯笑的挑発であるが、出家後の宗貞を「心見むとて」と詞書されたところが面白い。「試みんとて」でもほぼ同じことだが、出家した宗貞の風流心のありかを見たいという問いかけである。のちに仏教界の欲望を集めて僧正に任ぜられる遍昭の飄逸の返歌のことばは、ここからすでに後半生を特色づける洒脱な世界が始まっていたというような面白さである。
「世を背き出家した私の僧衣はただ一つしかありません。寒いあなたにそれをお貸ししなければ情けしらずと思われましょう。さあさあ、御一緒にこの衣を掛けて寝るといたしましょうか」ということだ。美女と僧の風流の応答の耳目を驚かすに十分な一場面である。
場を華やかせ人の心をいきいきと引きつけずにはいない小町の歌ことばは、この応答をみてもわかるように、場に即応する物言いの才(ざえ)のみごとさにあったといえる。
宮廷女流として小町の流れを受けた伊勢が内面を掘り下げたことば技をもったのに対し、ことがらの目新しさ、着想の面白さの方に主眼がある大胆さが魅力の小町がここにはいる。
つづく(次回は、「2.小野小町の夢の歌」の予定)