中宮彰子が紫式部に『白紙文集』を読めと言われたのは、それが最も世間一般に知れ渡った漢詩文集だったからでしょう。漢文のことを何も知らぬ中宮彰子でも、『白紙文集』の名は知っていたということです。作者白居易は唐代の詩人ですが、本人の在世中から作品が日本にも伝わり、人気を博していました。最も有名なのは、実在の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋を題材にした、幻想的な歴史悲劇「長恨歌」です。紫式部も『源氏の物語』を書く際、大いに参考にしました。白居易の作品は総じて漢文につきものの堅苦しさが少なく、文章が平易で日本人にも垣根が低いことも、人気の理由だったのでしょう。そんな白居易の自選全集が『白紙文集』です。
ですが、中宮彰子のために紫式部が選んだ教材は、多少毛色の違った『白紙文集』全七十五巻のうち第三巻と第四巻の二巻を占める連作「新楽府(がふ)」五十首です。白居易はその序で、「この作品は文学のために作ったのではない」と言っています。それは政治のために作った作品でした。白居易の詩は、曲がつけられ歌となって、中国各地で万人に口ずさまれていました。白居易はそれを利用して、民衆の声として役人や皇帝に聞き届けられ、政治を変える詩を作ろうと企てたのです。(投稿者注;当時の中国の政治が見本になる訳ではなく、中国の役人や皇帝が腐っていたから、良い政治とはこうでなければならないという思想が中国で発達したのです。)だから「新楽府」の内容は政治向きで、大変お堅い。特に女性向きでは全くないものです。
それでも紫式部がこれを中宮彰子のために選んだのには、理由がありました。それは一条天皇です。一条天皇はしばしば詩の会を催し、自らも詠まれる。その好みは、一般の方々とは違っていました。そして紫式部は、女の分際でありながら、父親が詩の会の会員で話を聞いていたので、たまたまそれを知っていました。
一条天皇は即位がわずか七歳の幼さでしたから、当初は祖父の藤原兼家が摂政になって、全権を掌握しました。そしてその後は兼家の息子へ、そして道長へと権力がつながれました。しかしそれは一条天皇が無力なお飾りだったということではありません。特に道長が権力の座に就いてからは、公卿の意見を道長がとりまとめ、それを聞いて一条天皇が決定するという形での、天皇親政を敷いています。一条天皇の政治に取り組む姿勢は実にひたむきで、そのことは漢学を学ぶ態度にも表れています。政治の思想と制度の先進国である中国に学ぼうとして、漢学に励んでいるのです。
一条天皇は『白紙文集』も好きで、「新楽府」の民が天子に心を伝えるための詩、天子が民の心を知るための詩、善きまつりごとのための詩などに基づき、善政を行う意欲に満ちていました。
もしも中宮彰子が一条天皇の心に寄り添いたくて漢学に手を伸ばされたのであれば、内容が無骨だろうがおしゃれでなかろうが、この教材こそ最適です。
中宮彰子は、最初は驚かれるかもしれませんが、紫式部が中宮彰子の一条天皇への気持ちに気づいたということも含めて、受け入れてくださるでしょう。果たして中宮彰子は、その後何年も粘り強く勉学に励まれたのです。
参考 山本淳子著 紫式部ひとり語り