前半 伊勢の娘中務をめぐる二人の親王
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集
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やみくもな恋心が高じてきたり、ライバルの貌(かお)がはっきりしてくると、恋する人がとんでもない行為に出ることは今も昔も同じだろうが、たとえば業平が東宮妃候補の高子(たかいこ)を盗み出したり、物語では光源氏が若紫を誘拐して自邸に連れてきてしまうなど、今日では考えられないようなことが起きる。
「後撰集」の「雑」をみるとこんな場面がある。
元長の親王(みこ)の住み侍りけ時、手まさぐりに、何入れて侍りける箱にかありけん、下帯して結ひて、又来む時に
あけむとて、物のかみにさし置きて、出で侍りける後、常明(つねあきら)の親王に取り隠されて、月日久しく侍りて、ありし家に帰りて、この箱を元長の親王に送るとて
あけてだに何にかは見む水の江の浦島が子を思ひやりつつ 中務
中務の歌は前にも幾つか読んできたが、これは平安時代の上流の男女の色好みな交際と日常が見えるようで面白い。中務が夫としたのは源信明(さねあきら)で、ともに三十六歌仙に数えられる名手である。信明は父の譲りを受けてはじめ蔵人に就任したものの、その後は諸国の受領を歴任した。
一方中務は、宇多院の皇子中務卿敦慶親王と歌人伊勢の間に生まれて、魅力的な美貌の才媛であったらしく、貴顕の間には歌名とともにはやくから知られていたと思われる。「中務集」にみる交流は花形そのものだ。
しかし、掲出の歌の場面は独特である。まず中務の家にひところ夫として通ってきていた元長親王は陽成院の第三皇子、二品(上級貴族)式部卿である。居間の手近なところに何が入っているのか箱を置いており、それは小袖などを着る時の下帯で無造作に結んである。
「こんど来た時あけるから」と言い置いて外出されたが、そのあと珍事が起きた。中務自身が常明親王に拉致されたのである。親王は醍醐天皇第五皇子で、母は女御和子、光孝天皇皇女である。二親王の立場がどういうものであったかはわからないが、別に大事件でもないところが平安時代の上流の恋の日常であった面白さがある。
中務はしかも、常明親王に取り隠されたまま、「月日久しく」その傍らに侍ってのち帰宅したのだ。あの箱はもちろん誰の手にも触れられずそのままにあった。この歌は、長らくの不在の言いわけをするでもなく、しばらくは夫として情交のあった貴人に、私物の箱を返す歌だ。
「貴方の下帯に結び固められた箱を、長らく時間は経ちましたが、どうして開けて見たりなど致しましょうか。浦島が故郷に帰ったときのように、呆然と、過ぎた時間を思いながら眺めております」といっている。「浦島の子」のようだと、過ぎた日に感慨を加えているところが失踪の言いわけといえば言いわけである。
中務は延喜十二年(912)ごろ出生かと推定されているので、それを基準に考えると、常明親王は天慶七年(944)三十九歳で亡くなっているので、中務よりは七歳年長、元良親王は天延四年(976)七十六歳で亡くなっているので中務には十二歳年長ということになる。色好みの世界に年齢はないと考えられていた平安時代の男女の面白さが躍如としている。
後半 伊勢の娘中務をめぐる二人の親王 につづく
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」