4-3 色好みの女君たち
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集
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4-2 のつづき
しかし、幸いにも孚子内親王の恋は叶えられたらしく、桂宮の御所に式部卿宮敦慶親王がお住まいになるという時期があった。孚子内親王の満たされた日々、桂宮に侍(さぶら)う人々もまた敦慶親王のめでたさに憧れ、苦しい恋に悩む者もあったのである。身分や立場は、高くても低くても人を縛るが、恋の言葉は時にそれを越えて真情の美しさを伝えてくれる。
桂宮のある夏の夕べ、宮にお仕えしている一人の少女が、敦慶親王への知られることもない恋に耐えていた。折りふし蛍が乱れ飛んでいる美しさを眺めていた親王が、この少女に「あの蛍を捕まえておくれ」とお命じになる。
少女は汗衫(かざみ:もとは下着の一種らしいが平安時代以降、後宮に奉仕する童女が表着 (うわぎ) の上に着た正装用の服。 脇が明き、裾を長く引く)という涼しい単衣を着ていたが、その袖に捕まえた蛍を包んでごらんに入れながら歌を詠んだ。
つつめどもかくれぬものは夏虫の身よりあまれる思ひなりけり
(包みかくそうとしても、かくしきれないものは、ごらんのように蛍の身よりあふれる思いの火でございます)
美しい歌である。場面も美しい。「後撰集」にはこの歌「桂のみこのほたるをとらへてといひ侍りければ、わらはのかざみのそでにつつみて」という詞書で収録されている。「桂のみこ」は孚子内親王の別称だし、「ほたるをとらへて」という物言いも甘やかだ。
すると、この「わらは」は少年で、桂のみこへの思慕をうたったものであるとも解することができる。しかし、いずれにしても、「おもひ」は「思ひ」の「火」であるから、忍び耐えていた恋の歌の言上(ごんじょう)という場面になる。
もっとも、「後撰集」は「恋」の歌ではなく、「夏」の歌として採録しており、「恋」の情緒を下敷きにした「蛍」の風流と考えているようだ。「大和物語」のこの逸話は「後撰集」の歌の場から発展したものであろうが、歌の主体が少女であるため場面の美しさとともに哀愁感が深い。
愛隣な恋の逸話をもう一つ「大和物語」から引いてみよう。これは少女の恋の愛隣ではない。さきに元良親王が折々の宿所にしていた監命婦(げんのみょうぶ)の闊達な応答の様子を書いた(カテゴリー「元良親王の色好み」)が、女たちはつまるところ風雅な言葉に遊びながら、本当に心を交わしあえる対象を求めていたのである。監命婦の恋の逸話は対象の年齢の幅が広く、本人自体の年齢がよくわからないところがある。
「大和物語」は弾正のみこや、源 宗于(むねゆき)との恋の歌の贈答を載せているが、命婦のやさしい心がにじむのは、藤原滋望(しげもち)というまだ若い蔵人所の官人との恋である。
滋望の父は忠文(ただぶん)といって、征夷大将軍に任じられ陸奥(みちのく)に下っている。天慶三年(940)のことだ。忠文は六十八歳である。するとその子息は三十代半ばくらいであろう。この滋望は童殿上(わらわてんじょう)して宮中の風儀を見習って成人したのであり、蔵人であったとすれば監命婦と知る場面も少なくはなかったはずだ。
ただ元良親王が天慶六年(943)五十四歳で亡くなっているので、天慶年間の監命婦の年齢はそれほど若くはないはずである。しかしもうそれは考えないで話に目を移そう。
4-4 色好みの女君たち につづく
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」