前半 伊勢の娘中務と源信明の恋と恋の終わり
馬場あき子氏著作「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」一部引用再編集
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中務(なかつかさ)と源信明の奔放な楽しいやり取りをみよう。
源さねあきら(信明)「たのむことなきは死ぬべし」と言へりければ
いたづらにたびたび死ぬと言ふめれば逢ふには何をかへむとすらん
「後撰集」恋三 中務
返し
死ぬ死ぬと聞く聞くだにも逢い見ねば命をいつの世にか残さむ
源 信明
中務は「古今集」の代表女流として大きな足跡を残した伊勢の娘である。父は宇多院の第四皇子敦慶(あつよし:名前の由来の中務卿であった)親王で醍醐天皇と同母の親王であったから、中務は若き日から注目を集めた女流として貴顕の間にも知られ、多くの男性との交流があったことが「中務集」によっても知られる。
この贈答相手の源信明も風雅の人で、公任(きんとう)の撰んだ「三十六人撰」に父公忠(きんただ)とともに入っている。いわゆる「三十六歌仙」の一人である。
「信明集」では中務との贈答がほとんど中心をなすほどの仲であった。しかし、なぜか晩年まで添いとげることはできなかったようだ。
ここにあげた贈答は双方ともこうした場での物なれた物言いが面白く、詞書からはじめて、息づかいまで聞こえてくるようだ。「後撰集」が、「恋三」の歌として収録しているのもそのためであろう。
しかし、「信明集」ではこのあとに、はじめて中務に会った時の歌を置いているので、この歌の効果によって会ったかの印象を受ける。ともかく、信明はだいぶじれていて、「たのむことなくは死ぬべし(私を夫として信頼なさらぬならもう死んでしまいます)」と中務に言ってやったのだ。
その時の中務の歌が、「いたづらに」の歌である。「軽々しく死ぬ死ぬと仰しゃるけど、逢えないから死ぬなどと仰しゃるようでは、お逢いした時はなんと仰しゃるつもりなの」というもの。信明も負けずに言い返さなければならない。そこで、「私がいくら死ぬ死ぬと訴えても逢ってくれないのですから、この世で生きてお逢いするには、私の命はいったいいつまで残しておいたらいいのでしょう」と返している。
中務と信明の恋にもう少しこだわってみると、「恋一」に次のような歌が採られている。これが「信明集」では「はじめてのつとめて(早朝)かへりたる女」と詞書されていて、中務の方から男のもとに行ったように受け止められる。「恋一」によって見てみよう。
後半 伊勢の娘中務と源信明の恋と恋の終わり につづく
参考 馬場あき子氏著作
「日本の恋の歌 ~貴公子たちの恋~」