見出し画像

gooブログのテーマ探し!

解説-14.「紫式部日記」少女時代 後半

解説-14.「紫式部日記」少女時代 後半

山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集

**********
少女時代 後半

  いっぽう「紫式部日記」には同母弟の惟規とのエピソードが書きとめられている。

  弟が漢籍を素読・暗唱する傍らでそれを聞いていて、紫式部のほうが「あやしきまでぞさとく」習得してしまったという思い出話である。門前の小僧さながらであるが、父は「お前が男子でないのが私の不運だ」と嘆いたという。

  当時漢学は、男性にとっては官人世界での出世の手掛かりになり得たが、結婚し「里の女」として生きる女性にとっては疎遠なものだった。父は紫式部の将来像として、そうした人生しか想像しなかったのである。とはいえこの時期、紫式部は家庭において、「史記」や「白紙文集」など漢籍を心から楽しみ、おそらくはそれに没頭する日々を送ったはずである。紫式部の漢学素養は実に豊かであるばかりか、知識教養という程度を超えて、彼女の物の見方や考え方そのものの土台になっている。それは後年彼女が書くことになる「源氏物語」から透かし見られることだ。

  為時は、大学に学び文章生となり、播磨の権少掾(ごんのしょうじょう:国司の三等官、主に書記業務)の職を得た。文章生が学業を終えると諸国掾に推薦任官される制度(文章生外国)があったのである。その後永観二(984)年、花山天皇のもとで蔵人式部の丞の職(三等官)を得る。
  花山天皇は母の懐子も祖父の伊尹(これまさ)も既に亡くし、外戚といえば叔父の義懐(よしちか)ひとりであった。時の関白頼忠は天皇に冷ややかで、右大臣兼家は自らの孫である東宮の即位を虎視眈々と狙っていた。

  このように公卿たちの協力が得られぬ中で、大学寮出身の有能の者に実務担当のチャンスが回って来たのである。為時は自らを遅咲きの桜に重ね「遅れても咲くべき花は咲きにけり身を限りとも思いけるかな」と詠んで喜んだ(「後拾遺集」春下・一四七)。だが花山朝は二年で終わり、彼はその後十年間、散位を余儀なくされた。

  散位とは、官人として位階はあるが官職を持たない者である。京にいれば一応全員が散位寮に属して交代勤務する形になっているが、これといった仕事は無く、臨時で行事等に召され奉仕する程度である。当然収入は少ない。紫式部は父のこうした状況を目の当たりにしながら娘時代を送った。

  為時が浮上したのは長徳二年、折しも伊周(これちか)たちが花山法王襲撃事件を起こした直後の正月二十五日であった。為時はこの日の県召除目(あがためしじもく)で、当初淡路の守に任ぜられた(長徳二年大問書)。だが二十八日、道長により、為時は俄かに大国越前の守に替えられた(「日本紀略」)。

  「今昔物語集」(巻二十四の三十)は、為時が申し文を作って奉り、その中の

  「苦学の寒夜 紅涙襟を霑(うるお)す 除目の後朝 蒼天眼に在り」
  [苦学に励んだ寒い夜は、つらさのあまり血の涙が襟を濡らした。
   除目のあった翌朝は、失望のあまり真っ青な空が目にしみる。]

《解説》苦学の寒夜。紅涙(こうるい)襟(えり)を霑(うるお)す。除目の後朝(こうちょう)。蒼天(そうてん)眼(まなこ)に在り
《現代語解釈》寒い夜に耐えて勉学に励んでいたが、人事異動では希望する官職に就くことができず、失意と絶望で血の赤い涙が袖を濡らしている。しかし、この人事の修正が朝廷で行われれば、青く晴れ渡った空[天皇の比喩表現]の恩恵に感じ入って、その蒼天に更なる忠勤を誓うだろう

との句が道長を感動させたという。北陸道は中国大陸に面し、早くから菅原道真(加賀の権守(ごんのかみ))や源順(したごう:能登の守)など文章道出身者の補される(職に任じられる)所であった。

  紫式部は為時と共に都を離れ、越前に下向することになった。友と別れ、故郷を離れたのは六月のことと考えられている。長徳の政変が巻き起こり、定子が髪を切ったのは五月である。昨日の中宮が今日は孤独な尼に堕ちる人生の無常を、紫式部は一人の娘として感じていたことだろう。

つづく
名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「紫式部日記を読む心構え」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事