解説-13.「紫式部日記」少女時代 前半
山本淳子氏著作「紫式部日記」から抜粋再編集
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少女時代 前半
紫式部の生まれた年は、不明である。手掛かりは「紫式部日記」消息体末尾ごろに「いたうこれより老いほれて、はた目暗うて経よまず」とあることで、これを執筆した寛弘七(1010)年頃に、近い将来の老眼を覚悟する年齢だったと推測される。極めて大雑把な推定と言わざるを得ないが、九七〇年・九七三年・九七四年・九七五年・九七八年という生年の諸説はほぼここを出発点とする。
紫式部の本名もまた不明である。「紫式部」とは彰子に出仕した後の女房名で、それも当初は「藤式部」と呼ばれていたことが「栄華物語」(巻九・十)から知られる。
だが「栄華物語」は、「紫式部日記」に取材した寛弘五年の篤成親王五日の産養記事(巻八)では「むらさき」と記しているので、「紫式部」という呼び名は早くにできていたと思われる。応徳三(1086)年に完成した「後拾遺集」には作者名「紫式部」として三首の和歌が採られており、この頃には通り名の「紫式部」の方が一般化していたことになる。
なお「紫式部」の「式部」の部分は、父為時が花山天皇の時代に「式部の丞」であったことによる。紫式部の彰子への出仕はその時から二十年以上を経ており、余りに時が隔たっていることから、紫式部には父の式部の丞時代に出仕経験があり、「式部」という女房名はその時からのものだとする説もある。
だが、女房名に用いられる近親者の官職は、必ずしも出仕現在のものとは限らない。和泉式部の「式部」は夫の橘道貞が和泉の守だったことによるが、それは彰子への出仕の十年前の官職である。またその出仕の時、和泉式部と道貞との関係は既に破綻していた。しかし和泉式部は、おそらくは自分の意志で、「和泉」の名を望んだのである。
とすれば紫式部の「式部」についても、彼女が父の颯爽としていた時期を懐かしんで「式部」という女房名を望み、その名が認められたと考えるのが自然である。何より、「紫式部日記」で紫式部は女房生活に相当な違和感を示している。それは若い時期に外で仕事をした経験がある人のものではない。
紫式部の少女時代・娘時代については、「紫式部日記」および自撰歌集「紫式部集」が数少ない資料となる。どちらにも全く母に関する記事が見えないことから、母とは紫式部が幼い頃に死別したか、離別したものと推測される。同母の姉がいたが、「紫式部集」によれば紫式部の娘時代に亡くなった。紫式部は、妹を亡くすという似た境遇の友と文通し、互いを姉妹と呼んで悲しみを癒し合った。
つづく