「易」と映画と「名文鑑賞」

タイトルの通りです。

徒然草 第百五十七段 「筆を取れば物書かれ」

2016年05月08日 20時55分25秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
徒然草 第百五十七段
(出典:旺文社文庫 「現代語訳対照 徒然草」安良岡康作訳注 昭和46年9月1日初版 昭和50年第五刷 P262~)

 筆を取れば物書かれ、楽器を取れば音(ね)を立てんと思ふ。盃を取れば酒を思ひ、賽を取れば攤(だ)打たん事を思ふ。心は、必ず、事に触れて来(きた)る。仮にも、不善の戯れをなすべからず。
 あからさまに聖教(しょうぎょう)の一句を見れば、何となく、前後の文も見ゆ。卒爾(そつじ)にして多年の非を改むる事もあり。仮に、今、この文(もん)を披げ(ひろげ)ざらましかば、この事を知らんや。これ則ち、触るる所の益(やく)なり。心更に起らずとも、仏前にありて、数珠を取り、経を取らば、怠るうちにも善業(ぜんごう)自ら修せられ、散乱の心ながらも縄床(じょうしょう)に座せば、覚えずして禅定(ぜんじょう)成るべし。
 事・理もとより二つならず。外相(げそう)もし背かざれば、内証(ないしょう)必ず熟す。強いて不信を言ふべからず。仰ぎてこれを尊むべし。

(訳)
 人間は、筆を取ると、自然に何か書くようになり、楽器を手にすると、音を響かせようと思う。盃を手に持つと、酒のことを思い浮かべ、賽を手に取ると、賭け事をして遊びたいと思うものである。このように、人の心持は、きっと、何かの事実に接して生ずるのである。だから、すこしでもよくない遊びをしてはならないのである。
 かりそめにでも、仏典の一句を目にとめると、何ということなく、その前後の本文も目に入る。そのことで、思いがけず、長い間の考え違いをあらためることもあるのだ。かりに、いま、この経文をひろげて見ないならば、この考え違いのあったことを知るであろうか。これが、即ち、物事に接するという事の利益なのである。信仰の気持ちがちっとも起きなくとも、仏前にいて、数珠を手にし、経文を手にするならば、いいかげんにしている間にも、善果を得るはずの所行が自然と実践でき、散漫で乱れた気持ちであっても、縄床において座禅すれば、知らず知らずのうちに、禅定が実現するであろう。
 人間においては、現象とその本体たる真理とは、元来、二つのものでなく、一体のものである。だから、外部に現れた行為が正しい法に反しなければ、内心の悟りは必ず出来上がってくるのである。したがって、仏前の形式的な所行につき、無理に不信仰を言い立ててはならない。かえってそうした所行をうやまって尊重しなくてはならない。

(引用終わり)

 40年近く前に買って、いまだに飽きもせず気に入った箇所を読み続けています。何と言っても原文のリズムの良さがたまらない。一語一語に蔵する簡潔さと響きが、訳してしまうと失われるのは当然です。
 兆民先生(中江兆民)の言う通り、「漢文の簡潔にして気力ある、其妙世界に冠絶す。泰西の文は丁寧反覆毫髪(ごうはつ)を遺(のこ)さざらんとす。故に漢文に熟くする者より之を見る、往往冗漫に失して厭気(いやき)を生じ易し。」(岩波文庫 「兆民先生・兆民先生行状記」幸徳秋水著 P32)といことですね。
 五十をいくつか過ぎたころから、長距離を運転する時にはお経を流しっぱなしにしておくようにしています。門前の小僧ほど賢くはないので、いつまでたっても暗唱はできませんが、「事・理もとより二つならず外相(げそう)もし背かざれば、内証(ないしょう)必ず熟す」時が来るかもしれないと思いつつ「シャドーイング」「リピーティング」「レシテーション」に励んでいます。もちろん、運転中の心の平静を保つことができるという作用が一番の効用であります。眠い時は早めの休憩を取るようにしましょう。
(合掌)

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