「易」と映画と「名文鑑賞」

タイトルの通りです。

『本物の「なぜ」とにせの「なぜ」』 山本夏彦著「毒言独語」p292~

2016年04月05日 04時45分57秒 | 漢文漢籍名文鑑賞
『本物の「なぜ」とにせの「なぜ」』 山本夏彦著「毒言独語」p292~

 永井荷風は子供のころ、新聞を読むことを禁じられていたという。荷風が子供のころといえば明治二十年代だが、大正昭和になっても、新聞を読むことを禁じる家庭はまだたくさんあった。
(中略)
 なぜ読むことを禁じたのか、荷風は長じてそれを知ったという。当時の新聞は好んで醜聞を書いた。誇張して書いた。うそを書いた。大人にはそれが眉ツバだと分かるが、子供には分からない。だから大人は読んでいいが、子供はいけない。
 以来○十年、戦後は子供が何ごとにも「なぜ」と問うのをいいことだと喜ぶ大人がふえた。したがって、ホーム・ルームでしきりに「なぜ」を連発する子供がふえた。
(中略)
 なぜと問われても説明できることとできないことがある。なぜ挨拶しなければならないかと問われて、イギリス人を見よ、フランス人を見よ、世界ひろしといえども挨拶しない国民はないと、もし答えることができても、答えてはいけないのである。
 子供をしつけるには理屈を言ってはならない。挨拶せよときびしく命じ、もし挨拶しなければ罰するがいい、と私が言っても信じないなら、ヘーゲルが言っている。一度理由を言うと、そのつど子供は理由を求め、理由が得られないと承知しなくなるからである。
 理由なんかそのつど言えるものではない。この世の中のことは九割以上旧慣によって行われている。先生が子供たちに意見を言わせ、それをディスカッションと称して聞くふりをするのは悪い冗談である。意見というものは、ひと通りの経験と常識と才能の上に生じるもので、それらがほとんどない子供には生じない。新入社員にも生じない。
(中略)
 未熟な子どもの発するなぜは、そもそもなぜではない。これらすべてを承知したうえで、なお釈然としないなぜが本当のなぜである。早くなぜを連発した子供は、大人になって本当のなぜを発することがない。
(引用終わり)

 推敲に推敲を重ねて、これ以上削ると意味が分からなくなる寸前でやめる。そうやって出来上がった文章が本物の文章だと夏彦さんは何度も言っています。その文章を引用する際に未熟な読者(私)が「中略」だとか言って勝手に略していいものだろうかと思いながらタイプしています。まさに「薄氷を履むが如し」です。
 文章には好き嫌いがあるものです。それを承知したうえで、それでもたくさんの人の目に触れる物に載せる文章は、それなりに推敲されていなければならないのは当たり前です。推敲してもどうにもならない文章もあります。それは載せてはいけません。起承転結、序破急などが整っていないもの、同じ言い回しが連続するもの、「てにをは」の間違っているものなど論外です。
 たくさんの良い文章を繰り返し読まないと文章の感覚は養えないとこれも夏彦さんが言っています。なかなか人に教えてもらうことが困難なのですね。ひとは遠慮して他人の文章を面と向かっては批判しません。大人ですから。私などはへんてこな文章を目にすると、すぐに手近にある良い文章で口直しします。
 「操觚者(そうこしゃ)」という言葉があります。文筆家というほどの意味です。夏彦さんは自らも含めて、これらの職業を売文業と称して卑下しつつ、それでもなお「文章は経国の大業、不朽の盛事」と述べています。何度も繰り返し「我々はある国に住むのではない。ある国語に住むのである。祖国とは国語である。」(シオラン)とも言っています。

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