私はエッセイを書く時には、理想としては出来るだけ「自分の言葉」だけを使って表現したいと思っています。
ですから有名人の言葉を引用したり、有名な本から引用したりするのを、あまり好みません。
でも現実は理想通りには行かない事が多くて、多少は他人の話からの刺激を受けるような形で、自分の考えを発展させて表現する事もあります。
今回のお話も、数十年前の幼児向けの絵本に載っていた話からの引用ですが、まずはここから始めてみる事に致しましょう。
こんなお話です。
・
昔々ある国の王様が、10人の盲目の召使いたちに言いました。
「今日はお前たちにゾウという名の動物を教えてあげよう」
「お前たちは目が見えないのだから、直接手で触れて、ゾウというものがどんな動物なのかを理解するように・・・」
王様はそう言って、一頭の大きなゾウを連れてきました。
盲目の召使いたちは、初めて触れる感触から、ゾウという動物を一生懸命に理解しようとしました。
しばらくして王様が言いました。
「どうだ、分かったか?」
「ゾウという動物が、どんな動物なのかを各自述べてみよ!」
一人の召使いが言いました。
「ゾウというのは、大きくてゴツゴツと堅いものです」
するとそれを聞いた別の召使いが言いました。
「そんな筈はない。ゾウというのは、平べったくて薄いものです」
また別の召使いが言いました。
「2人とも間違っているよ!ゾウというのは、細くて短いものだ」
「いやいや、ゾウというのは、柱のように・・・」
このように10人が皆違う事を言い出して、「自分が正しい!」「お前たちは間違っている!」と相手を攻めて、ついには喧嘩になってしまいました・・・。
・
まあこんなお話です。
私は最近は「例え話」というものには、あまり興味はなくなってしまいましたが、過去に読んだものの中では、この例え話はかなり質の高い面白い話だなと思いました。
私はこう思ったのです。
この話の中の「ゾウ」と言うのは「人間の世界」や「宇宙」の例えであり、「盲目の召使い」というのは、「色々な立場」や「色々な考え方」の例えであると。
例えば科学者は、科学の立場から「事実の観察」によって「宇宙」というものを深く知ろうとしていますし、宗教家は、宗教の立場から「悟り」によって宇宙を知ろうとしています。
また「哲学者」は哲学の立場から「個性的な直感」によって宇宙を知ろうとしていますし、「心理学者」は人間の「心」というものから、「医者」は人間の「肉体」から宇宙の神秘を研究しているようにも見受けられます。
芸術家にしてもスポーツマンにしても、皆それぞれの立場から人間という小宇宙の可能性や謎を追求しているようにも思われます。
私は思いました。
科学者がいくら科学だけの知識で宇宙を理解したとしても、それは宇宙のほんの一部分に過ぎない・・・。
それは「一つの物の見方」、「ある角度からの見方」に過ぎない・・・・。
また同じ様に、哲学者や宗教家がいくら直感や悟りによって宇宙を理解したとしても、それも宇宙のほんの一部分に過ぎない・・・と。
目の見えない召使いたちにとっては、ゾウの全体像が把握出来ません。
ゾウの耳に触れた者にとっては、ゾウというのは平べったくて薄いものと考えてしまうでしょうし、ゾウのしっぽに触れた者にとっては、ゾウというものは細くて短いものと考えてしまうでしょう。
この時に例えば、皆がそれぞれの意見を仮に「全部正しい」と考え、それぞれの意見を寄せ集めれば、少しはゾウの全体像に近ずいて来るのかも知れません。
これは自分の考えだけを「正しい」とする事が、いかに愚かな事かを教えてくれる例え話のようにも見えますが、また別の見方をすれば、一つの立場から見て「絶対に間違っている」と思えるような考え方であっても、多くの考え方を寄せ集めれば、少しはものの真相に近ずいて来る、という可能性も感じられる話でもあります。
ものの真相を深く理解する為には、「明らかに正しい」と思えるような考え方も、また逆に「明らかに間違っている」と思えるような考え方も、どちらも大切にしなければならない、という事ではないかと思います。
考えて見ますと、人間が宇宙の真実を理解する事は、まず不可能な事のような気が致します。
しかしまた、だからこそ人間は永久に探求し続ける事になるのでしょう。
ですから有名人の言葉を引用したり、有名な本から引用したりするのを、あまり好みません。
でも現実は理想通りには行かない事が多くて、多少は他人の話からの刺激を受けるような形で、自分の考えを発展させて表現する事もあります。
今回のお話も、数十年前の幼児向けの絵本に載っていた話からの引用ですが、まずはここから始めてみる事に致しましょう。
こんなお話です。
・
昔々ある国の王様が、10人の盲目の召使いたちに言いました。
「今日はお前たちにゾウという名の動物を教えてあげよう」
「お前たちは目が見えないのだから、直接手で触れて、ゾウというものがどんな動物なのかを理解するように・・・」
王様はそう言って、一頭の大きなゾウを連れてきました。
盲目の召使いたちは、初めて触れる感触から、ゾウという動物を一生懸命に理解しようとしました。
しばらくして王様が言いました。
「どうだ、分かったか?」
「ゾウという動物が、どんな動物なのかを各自述べてみよ!」
一人の召使いが言いました。
「ゾウというのは、大きくてゴツゴツと堅いものです」
するとそれを聞いた別の召使いが言いました。
「そんな筈はない。ゾウというのは、平べったくて薄いものです」
また別の召使いが言いました。
「2人とも間違っているよ!ゾウというのは、細くて短いものだ」
「いやいや、ゾウというのは、柱のように・・・」
このように10人が皆違う事を言い出して、「自分が正しい!」「お前たちは間違っている!」と相手を攻めて、ついには喧嘩になってしまいました・・・。
・
まあこんなお話です。
私は最近は「例え話」というものには、あまり興味はなくなってしまいましたが、過去に読んだものの中では、この例え話はかなり質の高い面白い話だなと思いました。
私はこう思ったのです。
この話の中の「ゾウ」と言うのは「人間の世界」や「宇宙」の例えであり、「盲目の召使い」というのは、「色々な立場」や「色々な考え方」の例えであると。
例えば科学者は、科学の立場から「事実の観察」によって「宇宙」というものを深く知ろうとしていますし、宗教家は、宗教の立場から「悟り」によって宇宙を知ろうとしています。
また「哲学者」は哲学の立場から「個性的な直感」によって宇宙を知ろうとしていますし、「心理学者」は人間の「心」というものから、「医者」は人間の「肉体」から宇宙の神秘を研究しているようにも見受けられます。
芸術家にしてもスポーツマンにしても、皆それぞれの立場から人間という小宇宙の可能性や謎を追求しているようにも思われます。
私は思いました。
科学者がいくら科学だけの知識で宇宙を理解したとしても、それは宇宙のほんの一部分に過ぎない・・・。
それは「一つの物の見方」、「ある角度からの見方」に過ぎない・・・・。
また同じ様に、哲学者や宗教家がいくら直感や悟りによって宇宙を理解したとしても、それも宇宙のほんの一部分に過ぎない・・・と。
目の見えない召使いたちにとっては、ゾウの全体像が把握出来ません。
ゾウの耳に触れた者にとっては、ゾウというのは平べったくて薄いものと考えてしまうでしょうし、ゾウのしっぽに触れた者にとっては、ゾウというものは細くて短いものと考えてしまうでしょう。
この時に例えば、皆がそれぞれの意見を仮に「全部正しい」と考え、それぞれの意見を寄せ集めれば、少しはゾウの全体像に近ずいて来るのかも知れません。
これは自分の考えだけを「正しい」とする事が、いかに愚かな事かを教えてくれる例え話のようにも見えますが、また別の見方をすれば、一つの立場から見て「絶対に間違っている」と思えるような考え方であっても、多くの考え方を寄せ集めれば、少しはものの真相に近ずいて来る、という可能性も感じられる話でもあります。
ものの真相を深く理解する為には、「明らかに正しい」と思えるような考え方も、また逆に「明らかに間違っている」と思えるような考え方も、どちらも大切にしなければならない、という事ではないかと思います。
考えて見ますと、人間が宇宙の真実を理解する事は、まず不可能な事のような気が致します。
しかしまた、だからこそ人間は永久に探求し続ける事になるのでしょう。
いつもコメントをどうもありがとう。
Toru 君の mixi の日記を拝見しましたけれど、とても面白くて勉強になりました。
またそれと同時に、2年前に書いたこのエッセイを思い出してしまいました。
お陰で今回、修正・加筆する事も出来ましたよ。
Toru 君も、ただ音楽を制作するだけでは満足せずに、哲学的な事もお好きなようですね。
自分との共通点を感じてしまいましたよ。
それは「一つの物の見方」、「ある角度からの見方」に過ぎない・・・・。
いつもどうもありがとうございます。
おっしゃるとおりですよね。自分がmixiの日記に書かせて頂いたことと類似していると思います。人は日常の生活の中で、大宇宙のほんの一部に過ぎないものを、さらに人間というフィルターを通して見ているんですよね。そのフィルターの外にあるものは一体何なのかって考えるところにいろいろな分野(上記されている哲学、心理学、医学、数学、芸術などのような分野)があるのが興味深いです。