<追記> 2023.07.25
インスタグラムにオリジナル曲の動画をUPしていますので、アカウントをお持ちの方は、こちらもご覧下さい。
↓
Instagram Henry Nagata
私は「幸福の手紙」については幼い頃から疑問を感じていましたが、人の話を聞いていますと、一見常識的にみえるような意見の中に、意外な落とし穴がある事に気が付くようになりました。
今日はそんな問題をいくつか取り上げてみたいと思います。
最近ではインターネットの普及のせいか「幸福の手紙」というと、それと一緒に「チェーン・メール」という言葉がくっ付いていて、この二つが混同されているように感じる事があります。
例えば「幸福の手紙」や「チェーン・メール」を止めさせる理由として、次のような文章をネットで見つけました。
「チェーンメールの転送は、メールの送信数を著しく増大させ、大切な回線やメールサーバに大変負担が掛かり、障害を与えたり通信の混乱を招く恐れがあります。もし受け取った場合は、すぐに削除してください。決して他の人には転送をしないで下さい」
これは、一見非常に常識的な意見のように見えるかも知れませんが、こういう意見を聞いた時には真っ先に疑ってみなければなりません。
少し考えて見れば、こんな事では「幸福の手紙」や「チェーン・メール」を止めさせる事など出来ない事はすぐに気が付く筈なのです。
試しに今の文章の「チェーン・メール」の箇所を、「幸福の手紙」に置き換えてみましょう。
「幸福の手紙を出す事は、郵便の量を著しく増大させ、大切な郵便局や郵便配達のおじさん達に大変負担が掛かり、混乱を招く恐れがあります。・・・ですから決して郵送しないで下さい」
こう言っているのと同じようなものなのです。
その郵便を受け取る「相手の気持ち」を考えている訳ではないのです。
これは人間の「精神的」な問題を考えているのではなくて、通信技術の「機械的」な問題です。
サーバーの負担の問題などはインター・ネットの技術が進化すれば数年後には解決してしまう事柄なのです。
もし数年後に、大量のメールを送信しても何の問題も生じないような、進化したネットの状況が実現した場合、「幸福の手紙」の問題も解決するというのでしょうか?
「人間の心」や「人間の弱さ」というものも、進化しているというのでしょうか?
・
また「幸福の手紙」という言葉を聞くと「他人事」のように、こんな事を言う人もいるかも知れません。
「幸福の手紙を怖がって転送する奴は弱虫のバカ者だ。オレなんか一つも怖くないからすぐに破って捨てることが出来る」
このような言葉も、一見もっともらしい意見のように見えるのですが・・・
世の中には「怖いもの」がある事は事実です。
「怖いものなど一つも無い」と言い切れる人などは、一般の人の中には絶対にいないのです。
ただ、人によって怖いものが多少違うだけです。
「幸福の手紙」を恐れない人でも、別の事では恐れるものを持っている訳ですから、「他人事」ではない筈なのです。
また、こんな事を言う人もいるかも知れません。
「幸福の手紙は恐ろしいものではない」、「幸福の手紙を恐れてはいけない」
これも、もっともらしい意見のように見えるのですが・・・
大切な事ですが・・・
「幸福の手紙を恐れるから、他人にも転送する」とか「恐れないから破って捨てる」とか「恐れないようにして解決する」という問題ではない筈です。
「怖いから他人の事など考えない・・・怖くないから破って捨てる」というのでは問題は解決しません。
また「恐れ」を恐れないようにと、ごまかしてはいけないと思います。
人間ならどんな人にでも「怖いもの」や「怖い状況」があります。
そして、もしこういう状況が自分に襲い掛かって来た時に、自分はどういう行動を取るのか?
「怖い」から止む終えず、「他人を無視」するような行動を取るのか?
それとも、「怖い」けれども、「他人の事」も考えて行動するのか?
という「選択」を迫られている訳です。
ここが一番重要な事なのです。
・
もう30年も前の事になりますが、ラジオの深夜放送の全盛期がありました。
そしてその頃の人気ディスクジョッキーに、Aさんという女性の方がいました。
ある日、Aさんは、深夜放送でこんな話をしていたのです。
全国にいる、「幸福の手紙」に不安を感じている人たちに向かって・・・
「幸福の手紙を・・・私に送りなさい!」
若い頃の私は、この言葉に非常に驚きました。
若い女性でありながら、男性でも恐れている物を「自分に送りなさい!」と言えるというのは、一体どんな人なのだろう?
かなり「気の強い女性」なのだろうか・・・それともかなり「理屈っぽい女性」なのだろうか・・・?
Aさんが、どのような「真意」があって言った事なのかは分かりませんが、私はこれに対しては疑問を感じていたのです。
実際にこの深夜番組には、沢山の幸福の手紙が届きました。
しかし・・・
沢山の手紙が届いた分だけ、沢山の人たちの悩みを解決したと言えるのでしょうか?
一つの見方として・・・
「若い女性であるAさんが恐れていない物を、男である君が恐れてどうするのかっ!」
「男として恥ずかしくはないのかっ!」という言葉を感じ取って、「怖いけれども転送は止めよう」という人たちが沢山出て来たのであれば、一つの成功と言えるかも知れません。
しかし、沢山の手紙が放送局に届いたという事であれば、「沢山の弱い心を作った」という事と同じ事になるのではないでしょうか?
・
最近になって、このような考え方はAさんだけに限った事ではないという事を知りました。
ネット上で次のような文章を見付けました。
「幸福の手紙処理コーナー・運用基準」
宛先に困った幸福の手紙・不幸の手紙・チェーンメールの宛先としてご利用下さい。
自動的に削除いたします。更に広がることはありません。また害が及ばないよう呪術的な処置を施します。
さらに次のような文章も・・・
「Happy Mail 女神の祝福」のシステムについて
「Happy Mail 女神の祝福」は各メールアドレスに送る事で、女神が各々のメールを受け取り、女神の強大な力によって、届いたメールに祝福を与え、しかる後に浄化されるシステムになっております。
「不幸のメール」となると、出さないのがいいと分かっていても、やっぱり怖いから出してしまう。
「幸福」のメールだと、今までの不幸から脱出したいなんて思い、ついつい出してしまう。
そんな方のために用意しましたのが「Happy Mail 女神の祝福」です。
これを見ますと、私が若い頃にAさんの言葉に驚いたのも無理もありません。
何故ならAさんの言葉は、この「女神の言葉」だったからです。
しかし、どれもこれも皆同じ内容で嫌になります。
つまりチェーン・メールを「自分の手で断ち切る」というのではなく・・・
かわりに「誰かに断ち切ってもらおう」という安易な考えの人たちを沢山作ってしまう事になるからです。
チェーン・メールというのは「自分の問題」として、「自分の手で断ち切る」という事をしなければ、何時まで経っても解決する筈はありません。
・
ここで私の経験をお話ししたいと思います。
私が幸福の手紙を受け取ったのは、中学一年の時でした。
その内容は、「10日以内に10人の人に同じ文面のはがきを送れば幸福になり、送らなければ不幸になる」というものでした。
その送ってきた相手というのは、小学校の頃から常に学級委員をやっていた秀才で、中学校でも生徒会長や副会長などをやっていた仲の良い同級生です。
私はこの事が不思議でならなかったのです。
秀才といえば「頭の良い人」の筈です。
頭の良い人がこんな物を、仲の良い友だちに平気で送れるのだろうか?という疑問です。
私は困って、もう一人の仲の良い友だちに相談してみました。
「○○君からこんな物が送られて来たんだよ! どうしよう? 君はこんな物を送られた事があるかい?」
この友だちも生徒会長をやっていた秀才だったのですが、彼がいうには、
「ああ、これなら小学校の時に送られて来た事があったよ」
私は聞きました。
「それでどうしたの? 10人の人に出したの?」
すると彼は
「うん、出したよ」
「悩まなかったの?」
「うん、別に・・・はがきが来たから自分も出しただけだよ」
この二人の友だちは生徒会長と副会長ですから、学校の中でも飛び抜けて頭の良い人たちです。
この人たちが何故、何の疑問も感じる事無く幸福の手紙を仲の良い友だちに送る事が出来るのか?
通信簿で常に「オール5」を取れる秀才である事と、「倫理的な問題」とは全く関係が無いという事なのでしょうか?
私は仕方なく母親に相談してみました。
母親が言うには・・・
「これをもらった時に、どんな気がしたの?」
「う~ん・・・やっぱり嫌な気がしたよ」
「それなら10人のお友だちに出したら、皆どんな気持ちになる?」
「う~ん・・・」
私はこの時に、母親の言葉に目が覚めました。
自分が悩んだ物を10人の友だちに送れば、悩みも10倍になる訳です。
子供心にも、この母親の言葉は一本筋の通った「正しい答え」のように思われました。
私は恐怖心は当然ありましたけれども、幸福の手紙を破って捨てる事が出来ました。
私は今でも、この母親の言葉に感謝しています。
・
実を言いますと、私が怖いながらも幸福の手紙を破って捨てる事が出来た事には、もう一つの理由があったのです。
私は小学校の4年生の頃から、登校拒否で苦しんでいたのです。
(この時の事は、前に「学校恐怖症」とは何でしょう?」というエッセイに書きました)
今では登校拒否は社会現象として誰でも知っていますし、それほど変に思われる事もないかも知れませんが、40年も前には学校にも近所にも親戚にもそんな子供は一人もいなかった時代です。
親でさえ自分の子供の気持ちを理解する事は出来ないのです。
全くの孤独です。
私は子供心にも、「死」というものをぼんやりと考えていたものです。
私がこの苦しみから逃れる事が出来ましたのは、小学校の時の担任の先生が理解のある人で、「中学に進学したら、休まずに学校に行くと約束するならば卒業させる」と言ってくれた事です。
私は約束をして小学校を卒業する事が出来ました。
そして中学校では先生と友だちに恵まれた為に、信じられないくらい楽しい学校生活を送る事が出来たのです。
さて、こんな事を経験した後ですから、私には「幸福や不幸というものは、はがきの一枚や二枚で訪れるようなものではない」という事を子供心にも感じていた訳です。
・
人間というのは、弱いものなのかも知れません。
自分が幸せになりたい為に、他人の気持ちも考えずに幸福の手紙を出してみたり、神や仏に助けを求めてみたり・・・
これは皆「幸せにして欲しい」と誰かに頼んでいる姿です。
自分が他人の事を「自らの手で、幸せにする」という姿ではありません。
子供が母親に向かって、「助けて欲しい」と願っている姿です。
自分が親の立場になって、「自らの手で子供を守る」という姿ではありません。
ある宗教家が言った言葉があります。
「神に助けてもらおうと考えてはいけない」
そうではなくて、逆に「人間が神を助ける気持ちにならなければいけない」
「人間が神を助ける為に、教会を建てたり布教活動をしているのだ」と。
「チェーン・メールを誰かに断ち切ってもらいたい」という気持ちを何時まで持ち続けているのでしょうか?
「怖いながらも、自らの手で断ち切る」という人が世の中に増えてくれる事を、切に願う今日この頃です。
<追記> 2020.12.11
人気ディスクジョッキーのAさんと言うのは、「レモンちゃん」の愛称や「スプーン一杯の幸せ」の著書で知られる落合恵子さんの事です。
インスタグラムにオリジナル曲の動画をUPしていますので、アカウントをお持ちの方は、こちらもご覧下さい。
↓
Instagram Henry Nagata
私は「幸福の手紙」については幼い頃から疑問を感じていましたが、人の話を聞いていますと、一見常識的にみえるような意見の中に、意外な落とし穴がある事に気が付くようになりました。
今日はそんな問題をいくつか取り上げてみたいと思います。
最近ではインターネットの普及のせいか「幸福の手紙」というと、それと一緒に「チェーン・メール」という言葉がくっ付いていて、この二つが混同されているように感じる事があります。
例えば「幸福の手紙」や「チェーン・メール」を止めさせる理由として、次のような文章をネットで見つけました。
「チェーンメールの転送は、メールの送信数を著しく増大させ、大切な回線やメールサーバに大変負担が掛かり、障害を与えたり通信の混乱を招く恐れがあります。もし受け取った場合は、すぐに削除してください。決して他の人には転送をしないで下さい」
これは、一見非常に常識的な意見のように見えるかも知れませんが、こういう意見を聞いた時には真っ先に疑ってみなければなりません。
少し考えて見れば、こんな事では「幸福の手紙」や「チェーン・メール」を止めさせる事など出来ない事はすぐに気が付く筈なのです。
試しに今の文章の「チェーン・メール」の箇所を、「幸福の手紙」に置き換えてみましょう。
「幸福の手紙を出す事は、郵便の量を著しく増大させ、大切な郵便局や郵便配達のおじさん達に大変負担が掛かり、混乱を招く恐れがあります。・・・ですから決して郵送しないで下さい」
こう言っているのと同じようなものなのです。
その郵便を受け取る「相手の気持ち」を考えている訳ではないのです。
これは人間の「精神的」な問題を考えているのではなくて、通信技術の「機械的」な問題です。
サーバーの負担の問題などはインター・ネットの技術が進化すれば数年後には解決してしまう事柄なのです。
もし数年後に、大量のメールを送信しても何の問題も生じないような、進化したネットの状況が実現した場合、「幸福の手紙」の問題も解決するというのでしょうか?
「人間の心」や「人間の弱さ」というものも、進化しているというのでしょうか?
・
また「幸福の手紙」という言葉を聞くと「他人事」のように、こんな事を言う人もいるかも知れません。
「幸福の手紙を怖がって転送する奴は弱虫のバカ者だ。オレなんか一つも怖くないからすぐに破って捨てることが出来る」
このような言葉も、一見もっともらしい意見のように見えるのですが・・・
世の中には「怖いもの」がある事は事実です。
「怖いものなど一つも無い」と言い切れる人などは、一般の人の中には絶対にいないのです。
ただ、人によって怖いものが多少違うだけです。
「幸福の手紙」を恐れない人でも、別の事では恐れるものを持っている訳ですから、「他人事」ではない筈なのです。
また、こんな事を言う人もいるかも知れません。
「幸福の手紙は恐ろしいものではない」、「幸福の手紙を恐れてはいけない」
これも、もっともらしい意見のように見えるのですが・・・
大切な事ですが・・・
「幸福の手紙を恐れるから、他人にも転送する」とか「恐れないから破って捨てる」とか「恐れないようにして解決する」という問題ではない筈です。
「怖いから他人の事など考えない・・・怖くないから破って捨てる」というのでは問題は解決しません。
また「恐れ」を恐れないようにと、ごまかしてはいけないと思います。
人間ならどんな人にでも「怖いもの」や「怖い状況」があります。
そして、もしこういう状況が自分に襲い掛かって来た時に、自分はどういう行動を取るのか?
「怖い」から止む終えず、「他人を無視」するような行動を取るのか?
それとも、「怖い」けれども、「他人の事」も考えて行動するのか?
という「選択」を迫られている訳です。
ここが一番重要な事なのです。
・
もう30年も前の事になりますが、ラジオの深夜放送の全盛期がありました。
そしてその頃の人気ディスクジョッキーに、Aさんという女性の方がいました。
ある日、Aさんは、深夜放送でこんな話をしていたのです。
全国にいる、「幸福の手紙」に不安を感じている人たちに向かって・・・
「幸福の手紙を・・・私に送りなさい!」
若い頃の私は、この言葉に非常に驚きました。
若い女性でありながら、男性でも恐れている物を「自分に送りなさい!」と言えるというのは、一体どんな人なのだろう?
かなり「気の強い女性」なのだろうか・・・それともかなり「理屈っぽい女性」なのだろうか・・・?
Aさんが、どのような「真意」があって言った事なのかは分かりませんが、私はこれに対しては疑問を感じていたのです。
実際にこの深夜番組には、沢山の幸福の手紙が届きました。
しかし・・・
沢山の手紙が届いた分だけ、沢山の人たちの悩みを解決したと言えるのでしょうか?
一つの見方として・・・
「若い女性であるAさんが恐れていない物を、男である君が恐れてどうするのかっ!」
「男として恥ずかしくはないのかっ!」という言葉を感じ取って、「怖いけれども転送は止めよう」という人たちが沢山出て来たのであれば、一つの成功と言えるかも知れません。
しかし、沢山の手紙が放送局に届いたという事であれば、「沢山の弱い心を作った」という事と同じ事になるのではないでしょうか?
・
最近になって、このような考え方はAさんだけに限った事ではないという事を知りました。
ネット上で次のような文章を見付けました。
「幸福の手紙処理コーナー・運用基準」
宛先に困った幸福の手紙・不幸の手紙・チェーンメールの宛先としてご利用下さい。
自動的に削除いたします。更に広がることはありません。また害が及ばないよう呪術的な処置を施します。
さらに次のような文章も・・・
「Happy Mail 女神の祝福」のシステムについて
「Happy Mail 女神の祝福」は各メールアドレスに送る事で、女神が各々のメールを受け取り、女神の強大な力によって、届いたメールに祝福を与え、しかる後に浄化されるシステムになっております。
「不幸のメール」となると、出さないのがいいと分かっていても、やっぱり怖いから出してしまう。
「幸福」のメールだと、今までの不幸から脱出したいなんて思い、ついつい出してしまう。
そんな方のために用意しましたのが「Happy Mail 女神の祝福」です。
これを見ますと、私が若い頃にAさんの言葉に驚いたのも無理もありません。
何故ならAさんの言葉は、この「女神の言葉」だったからです。
しかし、どれもこれも皆同じ内容で嫌になります。
つまりチェーン・メールを「自分の手で断ち切る」というのではなく・・・
かわりに「誰かに断ち切ってもらおう」という安易な考えの人たちを沢山作ってしまう事になるからです。
チェーン・メールというのは「自分の問題」として、「自分の手で断ち切る」という事をしなければ、何時まで経っても解決する筈はありません。
・
ここで私の経験をお話ししたいと思います。
私が幸福の手紙を受け取ったのは、中学一年の時でした。
その内容は、「10日以内に10人の人に同じ文面のはがきを送れば幸福になり、送らなければ不幸になる」というものでした。
その送ってきた相手というのは、小学校の頃から常に学級委員をやっていた秀才で、中学校でも生徒会長や副会長などをやっていた仲の良い同級生です。
私はこの事が不思議でならなかったのです。
秀才といえば「頭の良い人」の筈です。
頭の良い人がこんな物を、仲の良い友だちに平気で送れるのだろうか?という疑問です。
私は困って、もう一人の仲の良い友だちに相談してみました。
「○○君からこんな物が送られて来たんだよ! どうしよう? 君はこんな物を送られた事があるかい?」
この友だちも生徒会長をやっていた秀才だったのですが、彼がいうには、
「ああ、これなら小学校の時に送られて来た事があったよ」
私は聞きました。
「それでどうしたの? 10人の人に出したの?」
すると彼は
「うん、出したよ」
「悩まなかったの?」
「うん、別に・・・はがきが来たから自分も出しただけだよ」
この二人の友だちは生徒会長と副会長ですから、学校の中でも飛び抜けて頭の良い人たちです。
この人たちが何故、何の疑問も感じる事無く幸福の手紙を仲の良い友だちに送る事が出来るのか?
通信簿で常に「オール5」を取れる秀才である事と、「倫理的な問題」とは全く関係が無いという事なのでしょうか?
私は仕方なく母親に相談してみました。
母親が言うには・・・
「これをもらった時に、どんな気がしたの?」
「う~ん・・・やっぱり嫌な気がしたよ」
「それなら10人のお友だちに出したら、皆どんな気持ちになる?」
「う~ん・・・」
私はこの時に、母親の言葉に目が覚めました。
自分が悩んだ物を10人の友だちに送れば、悩みも10倍になる訳です。
子供心にも、この母親の言葉は一本筋の通った「正しい答え」のように思われました。
私は恐怖心は当然ありましたけれども、幸福の手紙を破って捨てる事が出来ました。
私は今でも、この母親の言葉に感謝しています。
・
実を言いますと、私が怖いながらも幸福の手紙を破って捨てる事が出来た事には、もう一つの理由があったのです。
私は小学校の4年生の頃から、登校拒否で苦しんでいたのです。
(この時の事は、前に「学校恐怖症」とは何でしょう?」というエッセイに書きました)
今では登校拒否は社会現象として誰でも知っていますし、それほど変に思われる事もないかも知れませんが、40年も前には学校にも近所にも親戚にもそんな子供は一人もいなかった時代です。
親でさえ自分の子供の気持ちを理解する事は出来ないのです。
全くの孤独です。
私は子供心にも、「死」というものをぼんやりと考えていたものです。
私がこの苦しみから逃れる事が出来ましたのは、小学校の時の担任の先生が理解のある人で、「中学に進学したら、休まずに学校に行くと約束するならば卒業させる」と言ってくれた事です。
私は約束をして小学校を卒業する事が出来ました。
そして中学校では先生と友だちに恵まれた為に、信じられないくらい楽しい学校生活を送る事が出来たのです。
さて、こんな事を経験した後ですから、私には「幸福や不幸というものは、はがきの一枚や二枚で訪れるようなものではない」という事を子供心にも感じていた訳です。
・
人間というのは、弱いものなのかも知れません。
自分が幸せになりたい為に、他人の気持ちも考えずに幸福の手紙を出してみたり、神や仏に助けを求めてみたり・・・
これは皆「幸せにして欲しい」と誰かに頼んでいる姿です。
自分が他人の事を「自らの手で、幸せにする」という姿ではありません。
子供が母親に向かって、「助けて欲しい」と願っている姿です。
自分が親の立場になって、「自らの手で子供を守る」という姿ではありません。
ある宗教家が言った言葉があります。
「神に助けてもらおうと考えてはいけない」
そうではなくて、逆に「人間が神を助ける気持ちにならなければいけない」
「人間が神を助ける為に、教会を建てたり布教活動をしているのだ」と。
「チェーン・メールを誰かに断ち切ってもらいたい」という気持ちを何時まで持ち続けているのでしょうか?
「怖いながらも、自らの手で断ち切る」という人が世の中に増えてくれる事を、切に願う今日この頃です。
<追記> 2020.12.11
人気ディスクジョッキーのAさんと言うのは、「レモンちゃん」の愛称や「スプーン一杯の幸せ」の著書で知られる落合恵子さんの事です。
やっぱり良いこというよね。
うん
納得。
わたしもそう思う。
最後の宗教家の話も
わたしなんかは
自分の願いを願ってしまうが
本当は
神様の願いが叶うように
願うのが本当らしい
としりつつ
今日も自分のことを頼んでる始末・・。
でも、いざという時には例え自分が弱い人間であっても、「自分の力」で問題を解決しなければならない状況になる事は、どんな人にもある筈なのです。
ですから「他人事」のように思わず、またこれは「チェーン・メール」に限った問題ではないのだ、という事に早く気が付かなければならないと思います。
そして自分で転換点になる自覚を持ってさえいれば
判断ができるなとやはり思いました。
私のメールボックスにもこのチェーン・メールが届いた時がありました。善意の輪を拡げるという主旨で知り合いから来たものだったので
信じて私の知り合いにも伝えたのですが実はそれはチェーン・メールだったとのこと。
送ってしまったメールは取り返しが付かないので
私は一人一人に謝罪のメールを出しました。
みなさん賢明な方々で冷静に対処して下さいまして事無きを得ました。
苦い失敗でしたがそれ以来、もちろん二度と
この種の失敗は繰り返してはおりません。
その時に体得した事はメールは残るものなので
慎重に…ということでした。
コメントをどうもありがとうございます。
何度も読み直してくれたのですか?
エルゼさんは真面目な人ですね~!
私のHPでは、ついうっかり間違った事を書いてしまっても大丈夫ですからね。
もっと気楽に考えてもらって良いのですよ。
今回、このテーマを検索で調べて初めて知ったのですが、色々なチェーン・メールがあるようですね。
一見宗教団体の信者のように、「これを世の中に広めれば、皆幸せになる」というような善意で行われているもの。
変わったところでは、読んでいると可笑しくて大笑いしてしまうような「笑い話」を世の中を幸せにする為に送りなさい、というものとか。
このアドレスはウイルスが感染しているので皆に早く知らせて下さいとか。
善意であろうが悪意であろうが、結果的に人に不快感を与えたり、迷惑をかけてはチェーンメールですよね。
本当に「善いもの」であれば、強制的に広めようとしなくても自然に広まるのではないかと思います。
あっ、それからうっかりチェーン・メールを出してしまっても、そんなに気にする必要はないと思います。
私の友人の秀才たちも、それほど深い考えもなしに送ってしまったのだと思いますし・・・。
こんばんは。
落合恵子さんが好きなみちこちゃんです(笑)
ある方の落合恵子さんの紹介から参りました。
PSに名前が追記されていたので、コメしてみます。
私は「レモンちゃん」世代ではないのですが、レモンちゃんのことは、周りが話しているのを聞いたことがあります。
不幸の手紙を自分に送るように言うのは、落合恵子さんらしいですね。
その時落合恵子さんは「自分のところに送って、それで不幸の手紙を終わらせることが出来れば、それでいい。」「嫌な思いをする人がこれ以上でないように防ぐことが出来るなら、自分が受けてもいい。」と思ったのかもしれませんが。
う~んなるほど、弱い心を作ったというか、弱い心のままにしてしまったというのは、一理ありますね。
あらたんさん、良いことに気づきましたね。
不幸の手紙が来た時のあらたんさんとお母様のお話、その通りだと思います。
良いお母様ですね。
私は不幸の手紙をまったく信じなかったので、届くこともなかったけれど、気にも留めていませんでした。
落合さんや私のように、気にしない人の方が気づかないことあります。
「自分の手で終わらせる」とても大切で、勇気のいることだと思います。
あらたんさんは、強くなれたのね。すごいです。
あらたんさんの気持ちを聞いたら、落合恵子さんもとても喜ばれると思います。
思い出しました。
家は、誘拐もした宗教団体に絡まれて、何度か不審な郵便物が届いたことがあります。
爆発物や毒物はないだろうけれど、やはりぞっとしましたね。
即郵便局で、「受け取り拒否」しました。
それと同じ感じですね。
幸福の手紙なるチェーンメールもあるのですか。
それは聞いたことありませんでした。
良いことが書かれていたら気づかずにみんなに送ってしまいますね。姑息な手です。
あらたんさんのお話、たくさんの人が共感すると思います。
大切なお話書いて下さり、ありがとうございました。
不幸の手紙が来て、不幸の手紙を出している人が、不幸になるのが嫌とかでなく、何も考えずに来たから出したと受け身行動だったら、そっちの方が怖いですね。
気持ちが弱い強いより、そちらの方が問題です。
不幸の手紙を受け取っている落合恵子さんが、元気で活躍しているのを見て、「不幸の手紙を受け取っても不幸にならないじゃん」て気づいて、不幸の手紙を受け取っても出すのを止める人が出てたらいいね。
あらたんさんのような人が増えるといいです。
それにしてもお母様の話し方素晴らしいです。
自分に出来るかな?
落合恵子さんのファンの方でしたか・・・(;^_^A
この記事は15年前のものですが、一か月前の「追記」に「この話は落合恵子さんの事です」と書いてしまいましたので、
結果的には落合さんに対して批判的な記事になってしまい、申し訳ない気持ちもあったのです。
お察しの通り、主眼はそこにはありませんが…
ですから落合さんのファンの方から、好意的とも思えるコメントが入るとは思ってもみませんでした。
「あらたんさんは、強くなれたのね。すごいです」と書かれていますが、いえいえ、今も昔も全く弱い人間のままで恥ずかしいくらいです。
強くなって実行したのではなく、弱い人間のままで実行したからです。
多分、母親の言葉がなければ実行していませんね。
「不幸になるのが嫌とかでなく、何も考えずに来たから出した…そっちの方が怖いですね」とご指摘のように、この頭の良い友人たちの事ですが、当時中学一年生でありながら、何か大人びているように感じられるのです。
二人とも小学校の一年の時から通信簿は「オール5」で常に学級委員、それで中学では全校生徒900人以上の中での生徒会長と副会長になった秀才なのですが、こう言っているように感じられるのです。
「世の中とはそういうものなんだよ。日本人は”右にならえ”で良いんだよ。友人から来たものを疑わずに出すんだよ。それが幸せに繋がるんだ。世の中を信じることで幸せになるんだよ」と。
世慣れした大人のような感覚ではないでしょうか。
ですから当時の私は「秀才とはこのような人たちなのかなぁ。このような人たちが社会に出て出世するのかなぁ」と子供心にも感じていたのです。
つまり、頭の良い割には「倫理観」に頓着しない「現実的」な思考が不思議に感じたのです。
私のエッセイのスタンスは「正しい話は書かない」「例え世の中の少数派であっても正直に書く」等、色々とありますが、この話も「正しい話である」と主張している訳ではありません。
単に「自分はこう感じました」というものです。
プロの文筆家の優秀なエッセイでなくとも、素人の経験談は時に貴重な情報になることがあると思って書いている訳です。
落合さんに関しての話は、私の経験を含めて実はもう一つ書きたいことがあって、昨年から書こうと思っていたのですが未だに書けません。
でも、その内にUPするつもりでいます。