arata-tokyo-jp's blog(Henry Nagata)

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「幸福」と「幸運」・・1 

2004年10月21日 13時45分12秒 | エッセイ
20年以上も前に人から聞いた話で、詳しい事は忘れてしまったのですが・・・

「幸福」と「幸運」という言葉が区別されるようになったのは、意外な事に近代になってからの事だそうで、古い時代には「幸運」な事があれば「幸福」になれる、と考えられていた時代があったという事のようです。
「ハッピー」という言葉の語源も、「ハップン」から来ている、と言っていたような気がします。

という事は、例えば世の中全体が貧しい時代には、お金持ちの男性と結婚出来れば、それだけで幸福な女性になれた時代があったのでしょう。
また、世の中が不細工な人たちばかりの時代には、絶世の美女と結婚した男性は、それだけで幸福者になれたのかも知れません。

ところが、世の中が次第に豊かになって、お金持ちも美女も多くなってくれば、それが当たり前の事になり、お金持ちや美女と結婚したからといって「幸福」になれるとは言えないのではないか・・・。
それは「幸運」ではあるが、「幸福」とは区別されるものではないのか・・・と考えるようになって来た、という事なのかも知れません。

確かインドの古い文献に、人が「幸福」になるためには、ダルマ(宗教)、アルタ(富と友人)、カーマ(快楽)の3つが必要である、と書かれたものがあったような気がします。

という事は、これはとても現実的な考え方で、人間は「宗教」だけでも、「富」だけでも、「快楽」だけでも幸福にはなれない。
この3つがそろわなければダメだ、という事です。

20年以上も前の事ですが、TVでこんな事が話題になっていました。

それはある会社員が宝くじを当てて、大喜びで会社の同僚たちに「宝くじが当たった、大当たりだ!」と言って回ったのですが、ところがその同僚たちが何の反応も示さなかったために、腹を立ててその宝くじの券をみんなの目の前で破り捨ててしまった、というのです。

この人は宝くじを当てて「幸運」ではあったが、「幸福」ではなかった。
幸運を一人だけで味わって、他人に見せびらかしてみても、ねたまれるだけです。

幸福になるためには、例えば会社の同僚たちに、「今日は宝くじが当たったから、みんなに食事でもおごるよ」などと言って、みんなで喜ぶようにすれば、まだ良かったのかも知れません。
それに宝くじが当たった事を、心から喜んでくれるような友人も必要でしょう。
また、当たった大金の一部でも使って、多くの人たちに分け与えよるようにすれば、もっと喜びは大きくなったのではないでしょうか・・・。

この人は「幸運」を破り捨ててしまった人です。
これでは「幸福」にはなれません。
「幸福」になるためには、例え「不運」な出来事があっても、これを肥やしにして、バネにして、「幸福」をつかみ取るほどでなければならないと思います。

世の中には「不運」を乗り越えて「幸福」を感じている人たちが、多くいると思います。
例えば、病気で苦しい時を経験した人が、その後健康になって喜びを味わうように、不運を経験したからこそ、それを乗り越えて幸福を感じている人たちがいると思います。

「病気」の苦しさを経験しない人には、「健康」という事の本当の喜びを味わえないように、「不運」を経験しない人には、「幸運」や「幸福」の本当の喜びを味わう事は出来ないのではないでしょうか・・・。

「幸運」=(イコール)「幸福」ではないのと同じ様に、「不運」=「不幸」ではないのです。
「不運」を「貴重な経験」と考え、肥やしにし、バネにして、「不運を生かす」という事が大切な事だと思います。

繰り返しになりますが・・・
「大きく悩めば大きく悟り、小さく悩めば小さく悟る」と言われるように、苦しく辛い経験をした人たちというのは、初めから物質的に恵まれている人たちや、心身ともに健康な人たちには、味わう事が出来ないような「幸福感」を味わう事があるからです。
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