以前私が住んでいた街を、何かの用事があって歩いていた時の事です。
私は懐かしい街並みを眺めながら、のんびりと歩いていたのですが・・・
商店街から人通りの少ない細い横道に入った時に、向こうからお婆さんが犬を連れて歩いて来るのが目に入りました。
初めは何も気が付きませんでしたが、少しずつ近づいて来る内に「おやっ」と思いました。
犬の歩き方がちょっと変なのです。
足を怪我しているようなのです。
私はその姿を見ながら・・・「お婆さんとビッコの犬か・・・」などとぼんやり考えながら歩いていました。
私にはそれが何かひどく物悲しい姿に見えたのです。
「お婆さんとビッコの犬・・・」
そんな言葉を心の中で繰り返しながら、そのお婆さんが私の横をすれ違うまで眺めていました。
少し過ぎた所で、私は何か気になって後ろを振り返りました。
やはりそこには・・・背中を丸めた小さなお婆さんとビッコの犬が・・・物悲しい姿です。
私はその姿を見ているうちに、ふとある事に気が付きました。
良く見ると、その犬には首輪も綱も付けられていなかったのです。
犬を飼っている友人から聞いた話ですが、犬を連れて街を歩く時には絶対に首輪と綱は必要だというのです。
車は危険ですし、犬も何かの拍子でいつ飛び出すか分からないからという事です。
友人の知り合いの飼い犬も、道路で急に飛び出して車に跳ねられて死んでしまった事がある、と話してくれました。
何の危険もない広い野原で犬を放してやる事は犬に対する愛情を感じますが、街中でそれをやる事はあまりにも無神経な事なのです。
私は思いました。
このお婆さんは、もう既に怪我をしている犬を連れているにも係わらず、また同じ失敗を繰り返そうとしているのではないだろうかと・・・。
私はそう思うと、物悲しさと同時に憤りも強く感じて来ました。
後で考えてみれば、このお婆さんもきっと人の良いお婆さんなのだと思うのですが・・・。
つまり今回は「無知と残酷」・・・というお話です。
・
・
これと似たような気持を、子供の頃にも味わった事があります。
今ではあまり見かけなくなってしまいましたが、昔は商店街や学校の近くなどによく「ひよこ売り」が来ていました。
私は学校の帰り道にその黄色くて可愛い「ひよこ」を見かけると、つい欲しくなって親にねだったものです。
そんな或る冬の寒い日の事です。
私が学校から帰ってくると、楽しみにしていた三羽のひよこが何処にもいないのです。
「あっ、もしかすると」・・・
私は急に心配になりました。
何故かというと以前にもそういう事があったからです。
家にいたお婆さんが、「ひよこも寒くて可哀想だろう」という気持から、コタツの中に入れてしまったのです。
コタツといっても、今のような電気コタツではありません。
豆炭コタツです。
そんなコタツの中に入れられたら、一酸化炭素中毒で直に死んでしまう事くらい小学生でも分かる事なのですが・・・。
でもお婆さんには、いくら説明しても分かりません。
無知な愛情からひよこを死なせてしまったのです。
物静かで優しいお婆さんでしたから、愛情からやった事だとは分かってはいるのですが、それでも腹が立って仕方がなかったのです。
家族皆がお婆さんに「二度とそんな事はしないように!」とお説教です。
お婆さんも納得した筈なのですが・・・
この時の事が、すぐに頭を過ぎりました。
そして心配した通りの事が、また起きてしまったのです。
お婆さんは、二度も同じ間違いを繰り返してしまったのです。
・
・
「無知と残酷」といえば、お年寄りばかりの事ではありません。
子供というのも案外残酷な事をするものです。
やはり小学生の頃の事ですが・・・
昔は夏になると、男の子はよく「トンボ取り」をしました。
今ではほとんどトンボを見かけませんが、夕方に赤トンボが群れをなして飛んでいるのを良く見かけたものでした。
今の人たちでしたら、絶滅しそうなトンボを取ることに多少の罪悪感があるかも知れませんが、昔は注射を打って標本にする子供たちも多くいて、何の疑問も持たなかったのです。
そういう時代でした。
そんな或る日の事です。
友だちと遊んでいる時に、その友だちが素手でトンボを捕まえたのです。
私は何となく好奇の目でそれを眺めていたのですが、その内にその子がおかしな事をやりだしました。
トンボの羽を一つもぎり取ったのです。
私はそれを見てあっ気に取られ、何も言えぬままただ眺めているだけでした。
その子は貧しい家庭の子で、成績もあまり優秀な子ではなかったのですが、特別に変わった子供という訳ではありません。
その内にその子は二つ、三つ、四つと全部の羽をもぎり取ってしまったのです。
私は「何て残酷な事をするのだろう」と心の中では思うのですが、その子と仲が良かったせいなのか、それを声に出して非難する事が出来ないのです。
トンボの最大の特徴は「羽があって、飛べる事」です。
その大切な羽をもぎり取ってしまったら・・・
こんな可哀想な事はありません。
私はその時、心の中で叫びました。
「この子は残酷な事をする子だ」、「自分とは違う」、「みんなとも違う」「特別な子だ」・・・
その時には本当にそう思っていたのです。
でも実際のところは、どうなのでしょう。
羽をもぎり取って生かしておく子供と、殺して標本にする子供と・・・どちらが本当に残酷な子供なのでしょうか・・・?
私は何度もこの難問を解こうと試みましたが、いくら考えてみてもその答えは中々見付かりませんでした。
私は人生の難問に突き当たった哲学者のようなつもりになって、深刻に考え込みました。
「羽をもぎり取って生かしておく子供と・・・殺して標本にする子供と・・・どちらが・・・?」
こういう場合には発想を変えて見ると、案外早く答えが見付かる場合があるものです。
例えば・・・「もし自分がトンボだったら・・・」と考えてみたらどうでしょう。
私がもしトンボだったら・・・羽をもぎり取られて生かされているのも、殺されて標本になるのも、どちらも嫌に決まっています。
どちらが残酷か?・・・などという考え方くらい馬鹿げた話はありません。
トンボの気持を無視した考え方なのです。
自分がトンボだったら・・・羽をもぎり取る子供も、それをただ眺めている子供も、何の疑問も持たずに標本を作る子供も、それを許す大人たちも・・・その全てが嫌なのです。
全てがトンボの気持を考えない「無知で残酷な人たち」なのです。
・
・
話は少し変わりますが・・・
最近では「自然保護」とか「環境破壊」、「動物愛護」などの言葉がよく聞かれるようになって来ましたが、以前友だちがこんな話をしてくれた事があります。
動物の中には、子供を産んだ後に親が自分で子供を守り育てる動物と、産みっ放しで後は天に任せる?という動物がいると・・・。
「子供を育てる動物」の場合は、鳥や犬やネコを見れば分かるように3匹~5匹くらいしか子供を産みません。人間もそうですが・・・。
そんな少数でも十分に子孫を残す事は出来る訳です。
もう一方の「産みっ放しの動物」の方は、魚などを見れば分かるように天敵に食われる事を予測して?沢山の卵を産みます。
沢山食われてしまう事が分かっているから?・・・沢山産むという訳です。
ですからこの食われる事を予測している?動物を、人間が殺して食べる事には何も問題はなく、罪悪感も感じる必要はないのだ、という事なのです。
これは自然の摂理に適った事ですから、残酷な話ではない訳です。
私はその話を聞きながら、「世の中には色々な考え方があるのだな~」と考え込んでしまいました。
でもこの話は深入りすると長くなりそうですから、この辺で止めておく事に致します。
ここでは・・・
「人間というものは、どんな人にでも必ず無知なところがあって、自分でも全く気が付かない内に残酷な事をしているのではないか?」・・・
という疑問を投げかけるだけに留めておく事に致しましょう。
私は懐かしい街並みを眺めながら、のんびりと歩いていたのですが・・・
商店街から人通りの少ない細い横道に入った時に、向こうからお婆さんが犬を連れて歩いて来るのが目に入りました。
初めは何も気が付きませんでしたが、少しずつ近づいて来る内に「おやっ」と思いました。
犬の歩き方がちょっと変なのです。
足を怪我しているようなのです。
私はその姿を見ながら・・・「お婆さんとビッコの犬か・・・」などとぼんやり考えながら歩いていました。
私にはそれが何かひどく物悲しい姿に見えたのです。
「お婆さんとビッコの犬・・・」
そんな言葉を心の中で繰り返しながら、そのお婆さんが私の横をすれ違うまで眺めていました。
少し過ぎた所で、私は何か気になって後ろを振り返りました。
やはりそこには・・・背中を丸めた小さなお婆さんとビッコの犬が・・・物悲しい姿です。
私はその姿を見ているうちに、ふとある事に気が付きました。
良く見ると、その犬には首輪も綱も付けられていなかったのです。
犬を飼っている友人から聞いた話ですが、犬を連れて街を歩く時には絶対に首輪と綱は必要だというのです。
車は危険ですし、犬も何かの拍子でいつ飛び出すか分からないからという事です。
友人の知り合いの飼い犬も、道路で急に飛び出して車に跳ねられて死んでしまった事がある、と話してくれました。
何の危険もない広い野原で犬を放してやる事は犬に対する愛情を感じますが、街中でそれをやる事はあまりにも無神経な事なのです。
私は思いました。
このお婆さんは、もう既に怪我をしている犬を連れているにも係わらず、また同じ失敗を繰り返そうとしているのではないだろうかと・・・。
私はそう思うと、物悲しさと同時に憤りも強く感じて来ました。
後で考えてみれば、このお婆さんもきっと人の良いお婆さんなのだと思うのですが・・・。
つまり今回は「無知と残酷」・・・というお話です。
・
・
これと似たような気持を、子供の頃にも味わった事があります。
今ではあまり見かけなくなってしまいましたが、昔は商店街や学校の近くなどによく「ひよこ売り」が来ていました。
私は学校の帰り道にその黄色くて可愛い「ひよこ」を見かけると、つい欲しくなって親にねだったものです。
そんな或る冬の寒い日の事です。
私が学校から帰ってくると、楽しみにしていた三羽のひよこが何処にもいないのです。
「あっ、もしかすると」・・・
私は急に心配になりました。
何故かというと以前にもそういう事があったからです。
家にいたお婆さんが、「ひよこも寒くて可哀想だろう」という気持から、コタツの中に入れてしまったのです。
コタツといっても、今のような電気コタツではありません。
豆炭コタツです。
そんなコタツの中に入れられたら、一酸化炭素中毒で直に死んでしまう事くらい小学生でも分かる事なのですが・・・。
でもお婆さんには、いくら説明しても分かりません。
無知な愛情からひよこを死なせてしまったのです。
物静かで優しいお婆さんでしたから、愛情からやった事だとは分かってはいるのですが、それでも腹が立って仕方がなかったのです。
家族皆がお婆さんに「二度とそんな事はしないように!」とお説教です。
お婆さんも納得した筈なのですが・・・
この時の事が、すぐに頭を過ぎりました。
そして心配した通りの事が、また起きてしまったのです。
お婆さんは、二度も同じ間違いを繰り返してしまったのです。
・
・
「無知と残酷」といえば、お年寄りばかりの事ではありません。
子供というのも案外残酷な事をするものです。
やはり小学生の頃の事ですが・・・
昔は夏になると、男の子はよく「トンボ取り」をしました。
今ではほとんどトンボを見かけませんが、夕方に赤トンボが群れをなして飛んでいるのを良く見かけたものでした。
今の人たちでしたら、絶滅しそうなトンボを取ることに多少の罪悪感があるかも知れませんが、昔は注射を打って標本にする子供たちも多くいて、何の疑問も持たなかったのです。
そういう時代でした。
そんな或る日の事です。
友だちと遊んでいる時に、その友だちが素手でトンボを捕まえたのです。
私は何となく好奇の目でそれを眺めていたのですが、その内にその子がおかしな事をやりだしました。
トンボの羽を一つもぎり取ったのです。
私はそれを見てあっ気に取られ、何も言えぬままただ眺めているだけでした。
その子は貧しい家庭の子で、成績もあまり優秀な子ではなかったのですが、特別に変わった子供という訳ではありません。
その内にその子は二つ、三つ、四つと全部の羽をもぎり取ってしまったのです。
私は「何て残酷な事をするのだろう」と心の中では思うのですが、その子と仲が良かったせいなのか、それを声に出して非難する事が出来ないのです。
トンボの最大の特徴は「羽があって、飛べる事」です。
その大切な羽をもぎり取ってしまったら・・・
こんな可哀想な事はありません。
私はその時、心の中で叫びました。
「この子は残酷な事をする子だ」、「自分とは違う」、「みんなとも違う」「特別な子だ」・・・
その時には本当にそう思っていたのです。
でも実際のところは、どうなのでしょう。
羽をもぎり取って生かしておく子供と、殺して標本にする子供と・・・どちらが本当に残酷な子供なのでしょうか・・・?
私は何度もこの難問を解こうと試みましたが、いくら考えてみてもその答えは中々見付かりませんでした。
私は人生の難問に突き当たった哲学者のようなつもりになって、深刻に考え込みました。
「羽をもぎり取って生かしておく子供と・・・殺して標本にする子供と・・・どちらが・・・?」
こういう場合には発想を変えて見ると、案外早く答えが見付かる場合があるものです。
例えば・・・「もし自分がトンボだったら・・・」と考えてみたらどうでしょう。
私がもしトンボだったら・・・羽をもぎり取られて生かされているのも、殺されて標本になるのも、どちらも嫌に決まっています。
どちらが残酷か?・・・などという考え方くらい馬鹿げた話はありません。
トンボの気持を無視した考え方なのです。
自分がトンボだったら・・・羽をもぎり取る子供も、それをただ眺めている子供も、何の疑問も持たずに標本を作る子供も、それを許す大人たちも・・・その全てが嫌なのです。
全てがトンボの気持を考えない「無知で残酷な人たち」なのです。
・
・
話は少し変わりますが・・・
最近では「自然保護」とか「環境破壊」、「動物愛護」などの言葉がよく聞かれるようになって来ましたが、以前友だちがこんな話をしてくれた事があります。
動物の中には、子供を産んだ後に親が自分で子供を守り育てる動物と、産みっ放しで後は天に任せる?という動物がいると・・・。
「子供を育てる動物」の場合は、鳥や犬やネコを見れば分かるように3匹~5匹くらいしか子供を産みません。人間もそうですが・・・。
そんな少数でも十分に子孫を残す事は出来る訳です。
もう一方の「産みっ放しの動物」の方は、魚などを見れば分かるように天敵に食われる事を予測して?沢山の卵を産みます。
沢山食われてしまう事が分かっているから?・・・沢山産むという訳です。
ですからこの食われる事を予測している?動物を、人間が殺して食べる事には何も問題はなく、罪悪感も感じる必要はないのだ、という事なのです。
これは自然の摂理に適った事ですから、残酷な話ではない訳です。
私はその話を聞きながら、「世の中には色々な考え方があるのだな~」と考え込んでしまいました。
でもこの話は深入りすると長くなりそうですから、この辺で止めておく事に致します。
ここでは・・・
「人間というものは、どんな人にでも必ず無知なところがあって、自分でも全く気が付かない内に残酷な事をしているのではないか?」・・・
という疑問を投げかけるだけに留めておく事に致しましょう。
理科の時間に解剖したことが
あります。
中学2年のときでしたが
あれは残酷なことじゃなかった
のかしら?
大義名分があれば誰もなんとも
思わずやってるんですよね。
同じことを面白半分にやれば
残酷道になる。
残酷かどうかは
そのときのそれをやった人間の
気持ちとか立場とか
によって決まるのでしょうか。
あっ・・・中学時代の「かえるの解剖」ですね?
懐かしいですね~!
この時に一つ発見をしたのは、男子の方は案外気が弱くて中々解剖が出来ないのに、女子の方は全然平気なのですよ!
クラス委員だった女の子なんか、関係のない首まで切ってしまって笑っているのですよ。
これには驚きました。
女の子って「結構残酷」って思いましたよ。
ないかしら。
今はとても出来ないけど
家族の命を守るためなら
有事にはかわいいカルガモちゃんでも
処理する度胸を女は持っていると思うの。
ただ、遊び半分には絶対しません。
そういう残酷性を持った女はいない!
と断言はしません。
昨今の世間事情をみていると・・。
これは自然の営みですから、残酷でも何でもありませんよね。
人間は雑食という事もあって、肉を食べない宗教や、菜食主義者などもいますけど・・・
アメリカで菜食主義者の夫婦の子供が、栄養失調か何かで身体の状態が悪くなったという話がありました。
そんな話を聞きますと、やはり人間は肉を食べるのが自然なのだと思いますね。
年寄りは惨めですか? ビッコの犬は哀れですか?
(ビッコって、差別用語ですよね)
お初の書き込みに辛口だと思いましたが、あらたさんが本来は優しい方だと思いますので本音でお伺いしました。
お年寄りを見て「悲しみ」を感じるのも、怪我をした犬を見て「悲しみ」を感じるのも、その他の何かに対して「哀しみ」を感じるのも、人それぞれの感受性ですから、これは偽善ではないのです。
大切な事ですが・・・この時の「悲しみ」という言葉は、人を「蔑視」した言葉ではありません。
それと同じ様に「ビッコ」という言葉も世間では「差別用語」かも知れませんが、私にとってはそうではありません。
「エスキモー」という言葉も、今では「蔑視用語」」という事で、「イヌイットゥ」という言葉が使われていると思います。
でも、よく考えて見て下さい。
いくら言葉の上で「蔑視用語」を使わなくなったといっても、実際に「蔑視」していたのでは意味がありません。
その逆に「蔑視」していない人間にとっては、例え「蔑視用語」を使ってみても、何の問題も起きないのではないでしょうか・・・。
この事をもう一度お考えになって、エッセイの「真意」を理解して頂きたいと思います。
あらたさんも、わたしのGaiaxβの雑文を読んでいらっしゃらなかったのでしょうか?
あらたさんと同じようなこと書いてます。エッセイではないですが。
ただ、お婆さんが犬を連れていたのではなく、犬がお婆さんに寄り添っていたんじゃないかと思うと、第三者が「無知」だとか「残酷」とかいうのはどうなんだろう?と思ってしまったわけで。「無知」は哀れでしょうか?
「犬がお婆さんに寄り添っていたのでは?」というご質問のようですが・・・
街中で犬と一緒に歩く時には、人が犬を「連れて」行かなくてはならないのです。
その理由は、犬が怪我をする危険があるからです。
次に「無知は哀れでしょうか?」というご質問ですが・・・
これは、ただ単に人それぞれの「感受性」ですから、「正しいか、間違いか」とか「良いか、悪いか」の問題ではありません。
私が個人的に「無知」なものに対して「哀しみ」を感じますよ・・・と言っているだけなのです。
私は綺麗事の「理想論」や「正しい意見」をエッセイに書いているのではありません。
私が経験から得た言葉でお話しているのです。