私は10代の頃から「荘子」の哲学や、中国の仏教である「禅宗」などに興味を持っていました。
枯れた心境とは何か?・・・無の境地とは・・・悟りとは・・・人生とは・・・宇宙とは・・・。
そんな疑問を常に持ちながら、悶々とした日々を送っていました。
そして20代になってからの事ですが、急に思い立って「座禅をしてみよう!」と決意しました。
座禅の本などを読んでいますと、修行中のお坊さんというのは、真冬の寒い夜に庭の冷え切った石の上で座禅をすると書いてあります。
非常に厳しい修行です。
私の場合は自分の部屋の中でするのですから、どうしても甘くなってしまいます。
それに私の事ですから、初めから無理をしては長く続かない事は分かり切っていましたから、「毎日必ずやる」、「毎日最低でも20分は必ずやる」という事に決めました。
初めの思惑では1時間くらいは楽に出来ると思っていたのですが、いざ座禅をやってみますと「時間」というものが異常に長く長く感じられるのです。
20分でも結構大変な長さなのです。
まず部屋を暗くして座り、目を半分くらい閉じて「呼吸」と「姿勢」を整えます。
喉で呼吸をするのではなく腹式呼吸なのですが、腹からというよりも足の先から深い呼吸をするという感じです。
普通は呼吸というと「吸ってから、その後で吐く」と思い勝ちですが、座禅の場合は「吐く息」から始めます。
特に「吐く息」を意識して、かなりゆっくりとしたテンポで「ひと~つ」と心の中で数え、これ以上吐けないところまで来たら自然に吸います。
次に「ふた~つ」と数えて繰り返しますが、「とう~」まで来たらまた初めから「ひと~つ」と数えて行きます。
つまり「1」から「10」までを数えて、それを何度も繰り返す訳です。
さて、この簡単そうに見える呼吸法が実際は中々上手く行きません。
「10」まで数える筈なのですが、気が付くと可笑しな事に「36・・・37・・・」などと数えている自分に気が付くのです。
これは意識が呼吸に集中せずに、いつの間にか「雑念」、「妄想」の世界を楽しんでいるからなのです。
過去の思い出や、女性の艶めかしい姿などが次から次へと現れては消えて行きます。
こんな事では何時になったら「無心の境地」になれるものやら・・・。
そんな或る真冬の寒い日の事です。
「そうだ・・・座禅をもっと厳しいものにしよう!」と思い立ちました。
そして服を脱ぎ始めパンツひとつの姿になり、扇風機をすぐ近くに置いて、身体に一番強い風を当てて座禅を始めました。
厳しい修行をしている禅僧の真似事です。
こんな事をやっている時に面白い経験をしたのです。
真冬に裸になり、しかも扇風機の冷たい風を受けているにも係わらず、ひとつも「寒い」と感じる事もなく、身体も「震える」という現象が全く起きなくなったのです。
私は「心頭滅却すれば、火もまた凉し」という心境になれたのかと思い、非常に喜びました。
また「一寸座れば、一寸の仏」という言葉がありますが、これは道元の言葉だったと思いますが、「座禅というものは後々悟る為にとか、後々仏になる為にするのではなく、座ったその時にすでに仏である」という意味だったと思います。
この意味を痛感する出来事が起きたのです。
実を言いますと、このような「厳しい寒さを感じない座禅」というものは、そんなに難しくはないのです。
問題はこの後なのです。
本来なら座禅で会得した心境を、座禅を止めた後の「日常生活」に生かせなければ全く意味がない訳です。
さて、そんな座禅を20分続けた後の事なのですが・・・。
「さ~て、これで今日の座禅は終りにしよう」と思ったこの瞬間に、今まで緊張していた精神が急に緩んで来たのです。
何やら急に寒さを感じるようになり、不思議な事に身体が震え始めたのです。
「これは寒い!急がないと風邪を引くぞ!」などと考え出して、今まで座禅をしていた精神などは吹っ飛んでしまい、急いで服を着始めます。
もうこうなって来ると、服を大急ぎで着ても寒さの方が数段早く、ほとんど寒さとの競争のようになって来るのですが全く勝ち目はありません。
こちらの完全な負けです。
「そら、急げっ!」と言わんばかりに、暖かいコタツの中に素早くもぐり込みます。
ところが「寒い、寒い!」。
コタツ布団を頭から被り赤外線の赤い電球を見ながら身体を丸めてじっとしていても、身体の震えが止まらないのです。
そればかりか扇風機の風でも寒く感じなかった筈なのに、布団のちょっとした隙間から入って来る僅かな風さえも敏感に感じるのです。
とにかく寒くて寒くて仕方がないのです。
この経験で得た事は、人間の感じる「寒さ」というものには、温度計で測る事の出来る「客観的な寒さ」と、二つの事を比較して感じる「相対的な寒さ」と、もう一つ「主観的な寒さ」があるという事でした。
さて、そんなこんなの座禅体験は8ヶ月で終了。
「心頭滅却すれば、火もまた凉し」・・・う~ん・・・「心頭滅却せずば、屁もまた臭し」などと馬鹿な事を考えながら続けた妄想ばかりの座禅でしたから、何の「悟り」を得る事もなく終わってしまいました。
こんな事で良いのだろうか・・・。
無意味な事だったのだろうか・・・。
でも、実はたった一つだけは悟った事があったのです。
それは・・・
「自分はいくら座禅を続けていても、悟れない人間である」・・・という事を悟りました。
・・・という訳なのです。
枯れた心境とは何か?・・・無の境地とは・・・悟りとは・・・人生とは・・・宇宙とは・・・。
そんな疑問を常に持ちながら、悶々とした日々を送っていました。
そして20代になってからの事ですが、急に思い立って「座禅をしてみよう!」と決意しました。
座禅の本などを読んでいますと、修行中のお坊さんというのは、真冬の寒い夜に庭の冷え切った石の上で座禅をすると書いてあります。
非常に厳しい修行です。
私の場合は自分の部屋の中でするのですから、どうしても甘くなってしまいます。
それに私の事ですから、初めから無理をしては長く続かない事は分かり切っていましたから、「毎日必ずやる」、「毎日最低でも20分は必ずやる」という事に決めました。
初めの思惑では1時間くらいは楽に出来ると思っていたのですが、いざ座禅をやってみますと「時間」というものが異常に長く長く感じられるのです。
20分でも結構大変な長さなのです。
まず部屋を暗くして座り、目を半分くらい閉じて「呼吸」と「姿勢」を整えます。
喉で呼吸をするのではなく腹式呼吸なのですが、腹からというよりも足の先から深い呼吸をするという感じです。
普通は呼吸というと「吸ってから、その後で吐く」と思い勝ちですが、座禅の場合は「吐く息」から始めます。
特に「吐く息」を意識して、かなりゆっくりとしたテンポで「ひと~つ」と心の中で数え、これ以上吐けないところまで来たら自然に吸います。
次に「ふた~つ」と数えて繰り返しますが、「とう~」まで来たらまた初めから「ひと~つ」と数えて行きます。
つまり「1」から「10」までを数えて、それを何度も繰り返す訳です。
さて、この簡単そうに見える呼吸法が実際は中々上手く行きません。
「10」まで数える筈なのですが、気が付くと可笑しな事に「36・・・37・・・」などと数えている自分に気が付くのです。
これは意識が呼吸に集中せずに、いつの間にか「雑念」、「妄想」の世界を楽しんでいるからなのです。
過去の思い出や、女性の艶めかしい姿などが次から次へと現れては消えて行きます。
こんな事では何時になったら「無心の境地」になれるものやら・・・。
そんな或る真冬の寒い日の事です。
「そうだ・・・座禅をもっと厳しいものにしよう!」と思い立ちました。
そして服を脱ぎ始めパンツひとつの姿になり、扇風機をすぐ近くに置いて、身体に一番強い風を当てて座禅を始めました。
厳しい修行をしている禅僧の真似事です。
こんな事をやっている時に面白い経験をしたのです。
真冬に裸になり、しかも扇風機の冷たい風を受けているにも係わらず、ひとつも「寒い」と感じる事もなく、身体も「震える」という現象が全く起きなくなったのです。
私は「心頭滅却すれば、火もまた凉し」という心境になれたのかと思い、非常に喜びました。
また「一寸座れば、一寸の仏」という言葉がありますが、これは道元の言葉だったと思いますが、「座禅というものは後々悟る為にとか、後々仏になる為にするのではなく、座ったその時にすでに仏である」という意味だったと思います。
この意味を痛感する出来事が起きたのです。
実を言いますと、このような「厳しい寒さを感じない座禅」というものは、そんなに難しくはないのです。
問題はこの後なのです。
本来なら座禅で会得した心境を、座禅を止めた後の「日常生活」に生かせなければ全く意味がない訳です。
さて、そんな座禅を20分続けた後の事なのですが・・・。
「さ~て、これで今日の座禅は終りにしよう」と思ったこの瞬間に、今まで緊張していた精神が急に緩んで来たのです。
何やら急に寒さを感じるようになり、不思議な事に身体が震え始めたのです。
「これは寒い!急がないと風邪を引くぞ!」などと考え出して、今まで座禅をしていた精神などは吹っ飛んでしまい、急いで服を着始めます。
もうこうなって来ると、服を大急ぎで着ても寒さの方が数段早く、ほとんど寒さとの競争のようになって来るのですが全く勝ち目はありません。
こちらの完全な負けです。
「そら、急げっ!」と言わんばかりに、暖かいコタツの中に素早くもぐり込みます。
ところが「寒い、寒い!」。
コタツ布団を頭から被り赤外線の赤い電球を見ながら身体を丸めてじっとしていても、身体の震えが止まらないのです。
そればかりか扇風機の風でも寒く感じなかった筈なのに、布団のちょっとした隙間から入って来る僅かな風さえも敏感に感じるのです。
とにかく寒くて寒くて仕方がないのです。
この経験で得た事は、人間の感じる「寒さ」というものには、温度計で測る事の出来る「客観的な寒さ」と、二つの事を比較して感じる「相対的な寒さ」と、もう一つ「主観的な寒さ」があるという事でした。
さて、そんなこんなの座禅体験は8ヶ月で終了。
「心頭滅却すれば、火もまた凉し」・・・う~ん・・・「心頭滅却せずば、屁もまた臭し」などと馬鹿な事を考えながら続けた妄想ばかりの座禅でしたから、何の「悟り」を得る事もなく終わってしまいました。
こんな事で良いのだろうか・・・。
無意味な事だったのだろうか・・・。
でも、実はたった一つだけは悟った事があったのです。
それは・・・
「自分はいくら座禅を続けていても、悟れない人間である」・・・という事を悟りました。
・・・という訳なのです。
その中でも常に「旅」をしていると云えるのでは…?と
ここ最近、特に感じられて仕方が御座いません。
「方丈記」ではないですが「ゆく川の流れは
絶えずして、しかももとの水にあらず」…と
申しましょうか…(苦笑)
同じ環境のいつもと同じ部屋のこのPC前のこの
椅子でさえ、昨日とは違う場所だと私には
時々感じられるのです。
…自分が昨日とは違うから、そうなるのだと
気がつくのにかなり時間が掛かりました。
盲点というか、灯台下暗しというのか…。
自分を案外自分が知らない、そんなところですね。
従いまして、自分を己を知るための旅はまだまだ続くわけですね。
時に音楽を愛で、自然に親しみ、書に触れ、
美を追求し、人を愛し、日々を健康に過ごす。
益々、そういう日々を撫ぜるように慈しみながら
過ごそうかな…と想った誕生日以降のわたしなんです。。。おほほ。
あらたさん、面白いエッセイをいつも<(_ _*)> アリガトォ
修行僧の事を「雲水」と呼びますけれど、雲のように水のように何事にも囚われない「自由な心」を持ちたいものですね。
私のarata(新)というHNは、もし私に子供が出来たら付けようと思っていた名前なのですが、「日々新たに・・・」という言葉から考えたものなのです。
毎日顔を洗うように心も昨日の汚れを洗い流して、何時も産まれたばかりの赤ん坊のように、見るもの聞くもの全てに新鮮な感動を持ち続けたい、という願いからなのです。
あらたさんのお考えに似たコラムを
書いたことが御座います…。
フト、そのことを思い出しました(笑)
毎朝、生まれ 夜毎に死ぬ…。
日々の営みがいつも新鮮に感じられ
生き生きと活動できる…そんな要旨だった
ように記憶しておりますが…。
ちょっと確認してまいりますね。
「毎朝生まれ、夜毎に死ぬ」
「日々の営みがいつも新鮮」・・・ですか。
確かに「日々新たに」と同じ意味ですね。
私は若い頃に岡本太郎の本を沢山読みましたが、岡本太郎という人は本当にそのように実際に生きた人だ、という事が分かりました。
TV-CMで「芸術は爆発だ!」とか「瞬間は永遠だ!」などと言っていた事がありましたが、真剣に生きている人というのは、一般の人から見るとかなり「滑稽」に見えてしまうのだろうな、と何時も残念に思っていた事を思い出してしまいました。
某神道系に誘われて行った時
神前で魂磨きと称して床を磨くんです。
ある人はすすり泣きを始め
ある人はうんうんと頷きはじめ
神がかりになったり
なにかしらトランス状態になれるらしい。
そして雰囲気はそんな風にならないとなんか
悪いような感じなのでなにかしら感じてる振りを
するのだけど、私は
頭の中でラブレターの文句とか
殺し文句とか考えてました。
えるぜさんの高尚なお言葉のあとに
こんなん書いてすみません。
あらら・・こりゃ、まいったな~!
でもその方が、まりあっちさんらしくて良いね~!
at 2001 06/03 09:34
眠りは一種の小さな死…。
一日の終わりの先の安らかな時間…。
不甲斐ない自分の一日を自省し反省した後
ご褒美として訪れる時間なのかもしれない。
…そして朝は..一種の誕生…。
新しい自分との出会い…。
心一新して…昨日の経験を踏まえて軌道修正
を加えつつ…我が道を進む為に取り組む。
内面で帰結し処理をし…そしておおらかに
のびのびと..萎縮することなく
自然体で…。
…「幸福論」の中の一つの主旨は
とてもシンプルでさえある…。
またそれ故、人に共感を与える…。
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上記がその記述でした(笑)
まりあっち、こんばんは。
ここで出会えて嬉しい限り…。
何やら大変そうでありながらそれを実は
愉しんでこなされておられるのかな?(笑)
本当に「明日」って何が起こるから分からない。
でも、だから面白いのかもしれないよね。
(〃^∇^)o_彡☆あははははっ
まいったな~。
私もお仲間に入れてね~!
でもね、3年前に「一日一生」というようなエッセイを書いていたのでしょ?
それでは私のエッセイを読んで、何かしら共通点を感じるのも頷けますね。