今日は東京上野の美大生、前田直樹の事を書きたくなりました。
彼は19歳。
前衛画家の黒岩克彦の芸術論を読んで感動し、本格的に絵を描く為に一年前に青森から上京したのです。
黒岩克彦の芸術論を読むと・・・
1.自分の感性に正直に描かなければならない。
2.他人に好まれる絵を描いてはならない。
3.売れる絵を描いてはならない。
4.凄みのある絵を描かなければならない。
5.常に美しい絵を描き、綺麗ごとの絵を描いてはならない。
6.他人の絵の真似も、自分の絵の真似さえもしてはならない。
・・・などと書かれています。
直樹はこれらの言葉に感動し、自分もそのような絵を実際に描けるような「前衛画家」になりたいと思ったのでした。
でも彼は暗い影のある青年でした。
高校時代に一度、カミソリで手首を切って自殺を謀った事があり、医者からは「うつ病」と診断されていました。
何の前触れもなく、急に死にたくなるような暗い気分に襲われる事があるのです。
美大では初めの内はデッサンばかりを描かされましたが、やっと油絵を描いた第一作目は、皆に笑われて酷い目にあいました。
彼の絵は、真っ白なキャンバスを灰色一色に塗りつぶしただけの絵だったからです。
本人は前衛画家のつもりなのです。
第二作目もやはり灰色の絵でしたが、一作目よりは濃淡をはっきりさせてあり、変化のある作品になっていました。
先生は苦笑いをして「黒岩克彦の影響か?」と言うのでした。
「今度上野の美術館でやるぞ!」
「えっ!」と声を出して直樹は驚きました。
なぜ先生は黒岩克彦の名前を出したのだろう?
もしかして自分の作品と似ている所があるのだろうか?
直樹は黒岩の前衛的な芸術論は繰り返し読んでいましたが、絵画作品の方は初期の一部の作品しか見ていなかったのです。
直樹は例え尊敬している画家の絵ではあっても、他人の真似は大嫌いでした。
・
それにしても嬉しかったのは、すぐ近くの美術館で憧れの「黒岩克彦展」を見に行ける事でした。
彼は数日後にさっそく美術館に出かけて行きました。
黒岩の作品は前期と後期に分けて、一階と二階に展示されていました。
前期の作品は二十代までの作品と、三十代までの作品の二つに分かれていて、「緑の時代」と「赤の時代」と解説されていました。
いずれにしろキャンバスに大きめの筆で、叩きつけるように沢山の色の絵の具が塗られているのです。
若い頃の作品には、青や緑の寒色系が多く使われているので、「緑の時代」と呼ばれているのでしょう。
三十代の作品には確かに、赤やオレンジなどの暖色系が多く使われていました。
直樹は前期の作品を見終わると、まだ見た事のない後期の作品を見る為に、階段を上って行きました。
解説には前期の作品は「幸福の時代」とも書かれていました。
何故なら三十九歳の時に、夫人と娘さんが交通事故に遭われて亡くなられ、そのショックで一時絵が描けなくなってしまったというのです。
その後は四十七歳の現在まで、再婚もせずに一人暮らしをしているとの事でした。
後期の作品は二階に展示されていましたが、直樹はその部屋に入った途端に「あっ!」と驚きました。
その部屋にある絵の全てが、真っ黒の絵の具に塗りつぶされていたのです。
小さなキャンバスから、4メートル程もある大きなキャンバスまで、どれも黒一色だったのです。
ただ、直樹の灰色の絵とは違って、どれも表面がデコボコしていてかなり厚みを感じました。
中には渦を巻いたような表現や、斜めの線と曲線を組み合わせたような筆の運びを感じる物もありました。
解説によると、事故で妻子を亡くしたショックから「うつ状態」になり、画風がすっかり変わってしまったらしく、この頃の作品は「黒の時代」と呼ばれているようでした。
直樹はその一つ一つの作品から「凄み」を感じる事が出来ました。
同じ一色の絵でも、直樹の灰色の絵とは全く違っていました。
黒岩の作品は芸術論の中でいくつかは見て知っていましたが、この「黒の時代」の作品は初めて見たものですから、かなりの衝撃を受けました。
会場は意外と混雑していました。
「意外と・・・」というのは、黒岩の作品は日本でよりもアメリカでの評判が高いと聞いていたからです。
またちょと気になる事もあったのですが・・・。
・
直樹の高校時代の絵は、皆から「上手い、上手い」と褒められるような写実的な絵で、前衛とは程遠いものでしたが、十七歳の時に読んだ黒岩の前衛的な芸術論の影響で、考え方が全く変わってしまったのです。
彼は黒岩に直接会って話がしたいと思い、何度も何度も手紙を出しました。
そして美術館に行ってから半年後にやっと会える事になったのです。
直樹が黒岩克彦の広くて明るいアトリエに行った時の事です。
先客があって、すぐにこれから帰るというところでした。
それは二十七、八歳の美しい女性で、直樹にはその女性の香水の香り、小さな白いイヤリング、形が不ぞろいの小さな石を数珠繋ぎにしたようなネックレス、色白の首筋が印象に残りました。
アトリエには予想通り、黒岩の若い頃の沢山の色彩を叩きつけるような絵とか、例の黒いデコボコの絵がそこら中に置いてありました。
直樹は珍しそうに部屋中を眺めていましたが、その内に「おやっ?」と思いました。
意外な事に、それらの絵に混じって、白い肌の美しい裸婦を写実的に描いた絵が何枚かあったのです。
「そうだ、さっきの女性だ!」と直樹は思いました。
「顔も良く似ている・・・これは写実じゃないか!」
直樹は中年の風格のある黒岩に聞きました。
「このような絵も描かれるのですか?」
その返事は、「最近たまに描くようになった」との事でした。
直樹は続けて聞きました。
「貴方の若い頃の芸術論とは矛盾はしないのですか?」
それに対する返事はありません。
直樹は疑問を抱いて正直に言いました。
「この間の美術館でも感じた事なのですが、人に好かれる絵を描いてはいけないという芸術論と、会場が混雑して人気があるという事とは矛盾しないのですか?」
直樹は自分の言葉に「はっ」として驚きました。
「こんな事を話す為に来たのではなかった筈だ・・・どうしよう・・・気を悪くしてしまっただろうか?」
黒岩は言いました。
「ただ何時の時代でも、自分に正直に描きたい物を描いているだけだ」
直樹はその時思いました。
「緑の時代」、「赤の時代」、「黒の時代」、そしてその後は「白い肌の裸婦の時代」になるのではないだろうかと・・・。
直樹は自分の絵を見てもらう為に、キャンバスを数枚持って来ていましたが、真似をしていると思われるのが嫌になって、黒岩に見せずにそのまま帰って来てしまいました。
「こんな筈ではなかったのに・・・もっと聞きたい事が沢山あったのに・・・何故あんな批判的な話ばかりになってしまったのだろう」
肌の白い美しい女性と出会って動揺したせいなのか、それとも美術館に行った時にすでに感じていた事なのか・・・。
・
正直に言うと、美術館に行った時に黒岩の才能に驚いただけではなく、同時に何か嫌な面も見てしまったような気がしていたのです。
例えばあの黒いデコボコの渦巻きや曲線の筆使いに、何か人に媚びるようなものを感じていたのでした。
「好かれようとしているのではないだろうか?」
直樹は直感的にそう思いました。
それは黒岩の芸術に対する「不信感」でした。
その後、何人かの人から黒岩の評判を聞きましたが、事故で夫人と娘さんが亡くなる以前から、黒岩には若い愛人がいたらしいとか、夫婦仲が悪かったとか、多額の借金をしているとか、友人がいないとか、全く良くない話ばかりなのです。
ある評論家の文章の中に「黒岩克彦は矛盾の画家である。若い頃の作品も今では古臭く感じるし、黒の時代の作品も何か嘘っぽいものを感じる」と書いてあるのを読んで、直樹は頷くのでした。
まだ若い直樹にとっては、黒岩の芸術に対する不信感だけではなく、黒岩の愛人関係が非常に嫌らしいものに感じられるのでした。
香水の香りも、イヤリングも、ネックレスも、白い肌も、全てが皆嫌らしく感じられるのでした。
・
問題が起きたのはそれから二週間後の事でした。
美大の教室は大騒ぎでした。
直樹が死んだのです。
手首を切ったのです。
自殺をする人というのは、何かに対して怒りを感じているとか、もしくは苦しみながら死ぬものだと思うのですが、彼の場合は違っていました。
彼は自分の暗くて狭い部屋の中で、大の字になって、少し薄ら笑いを浮かべたような顔で死んでいたそうです。
手首をカミソリでかなり深く切ったらしく、部屋中に血が飛び散っていましたが、遺体の横にはキャンバスと遺書らしきものがあったそうです。
その遺書らしきものには、「先生!私は作品を完成させました!」と、一言書いてあるだけでした。
そばにあったキャンバスというのは、例の灰色の絵に手を加えたものらしいのですが・・・
その灰色のキャンバスの上から、黒と白の絵の具を新たにベッタリと塗りたくり、その上から手首をカミソリで切って、噴き出した血の赤で塗り潰してあったのです。
全体的には「赤と灰色と黒」が曲線を描いてうごめいているような「凄み」を感じる作品になっていました。
直樹の作品は、血の赤い色を得て、ついに完成したのです。
彼は満足感に浸りながら、大の字になって永遠の眠りにつきました。
十九年の短い一生を、彼は彼なりに芸術の為に精一杯生きようとしたのです。
私は彼にエールを送りたいと思います。
一生に一枚だけの完成した絵を描いた前衛画家に・・・。
彼は19歳。
前衛画家の黒岩克彦の芸術論を読んで感動し、本格的に絵を描く為に一年前に青森から上京したのです。
黒岩克彦の芸術論を読むと・・・
1.自分の感性に正直に描かなければならない。
2.他人に好まれる絵を描いてはならない。
3.売れる絵を描いてはならない。
4.凄みのある絵を描かなければならない。
5.常に美しい絵を描き、綺麗ごとの絵を描いてはならない。
6.他人の絵の真似も、自分の絵の真似さえもしてはならない。
・・・などと書かれています。
直樹はこれらの言葉に感動し、自分もそのような絵を実際に描けるような「前衛画家」になりたいと思ったのでした。
でも彼は暗い影のある青年でした。
高校時代に一度、カミソリで手首を切って自殺を謀った事があり、医者からは「うつ病」と診断されていました。
何の前触れもなく、急に死にたくなるような暗い気分に襲われる事があるのです。
美大では初めの内はデッサンばかりを描かされましたが、やっと油絵を描いた第一作目は、皆に笑われて酷い目にあいました。
彼の絵は、真っ白なキャンバスを灰色一色に塗りつぶしただけの絵だったからです。
本人は前衛画家のつもりなのです。
第二作目もやはり灰色の絵でしたが、一作目よりは濃淡をはっきりさせてあり、変化のある作品になっていました。
先生は苦笑いをして「黒岩克彦の影響か?」と言うのでした。
「今度上野の美術館でやるぞ!」
「えっ!」と声を出して直樹は驚きました。
なぜ先生は黒岩克彦の名前を出したのだろう?
もしかして自分の作品と似ている所があるのだろうか?
直樹は黒岩の前衛的な芸術論は繰り返し読んでいましたが、絵画作品の方は初期の一部の作品しか見ていなかったのです。
直樹は例え尊敬している画家の絵ではあっても、他人の真似は大嫌いでした。
・
それにしても嬉しかったのは、すぐ近くの美術館で憧れの「黒岩克彦展」を見に行ける事でした。
彼は数日後にさっそく美術館に出かけて行きました。
黒岩の作品は前期と後期に分けて、一階と二階に展示されていました。
前期の作品は二十代までの作品と、三十代までの作品の二つに分かれていて、「緑の時代」と「赤の時代」と解説されていました。
いずれにしろキャンバスに大きめの筆で、叩きつけるように沢山の色の絵の具が塗られているのです。
若い頃の作品には、青や緑の寒色系が多く使われているので、「緑の時代」と呼ばれているのでしょう。
三十代の作品には確かに、赤やオレンジなどの暖色系が多く使われていました。
直樹は前期の作品を見終わると、まだ見た事のない後期の作品を見る為に、階段を上って行きました。
解説には前期の作品は「幸福の時代」とも書かれていました。
何故なら三十九歳の時に、夫人と娘さんが交通事故に遭われて亡くなられ、そのショックで一時絵が描けなくなってしまったというのです。
その後は四十七歳の現在まで、再婚もせずに一人暮らしをしているとの事でした。
後期の作品は二階に展示されていましたが、直樹はその部屋に入った途端に「あっ!」と驚きました。
その部屋にある絵の全てが、真っ黒の絵の具に塗りつぶされていたのです。
小さなキャンバスから、4メートル程もある大きなキャンバスまで、どれも黒一色だったのです。
ただ、直樹の灰色の絵とは違って、どれも表面がデコボコしていてかなり厚みを感じました。
中には渦を巻いたような表現や、斜めの線と曲線を組み合わせたような筆の運びを感じる物もありました。
解説によると、事故で妻子を亡くしたショックから「うつ状態」になり、画風がすっかり変わってしまったらしく、この頃の作品は「黒の時代」と呼ばれているようでした。
直樹はその一つ一つの作品から「凄み」を感じる事が出来ました。
同じ一色の絵でも、直樹の灰色の絵とは全く違っていました。
黒岩の作品は芸術論の中でいくつかは見て知っていましたが、この「黒の時代」の作品は初めて見たものですから、かなりの衝撃を受けました。
会場は意外と混雑していました。
「意外と・・・」というのは、黒岩の作品は日本でよりもアメリカでの評判が高いと聞いていたからです。
またちょと気になる事もあったのですが・・・。
・
直樹の高校時代の絵は、皆から「上手い、上手い」と褒められるような写実的な絵で、前衛とは程遠いものでしたが、十七歳の時に読んだ黒岩の前衛的な芸術論の影響で、考え方が全く変わってしまったのです。
彼は黒岩に直接会って話がしたいと思い、何度も何度も手紙を出しました。
そして美術館に行ってから半年後にやっと会える事になったのです。
直樹が黒岩克彦の広くて明るいアトリエに行った時の事です。
先客があって、すぐにこれから帰るというところでした。
それは二十七、八歳の美しい女性で、直樹にはその女性の香水の香り、小さな白いイヤリング、形が不ぞろいの小さな石を数珠繋ぎにしたようなネックレス、色白の首筋が印象に残りました。
アトリエには予想通り、黒岩の若い頃の沢山の色彩を叩きつけるような絵とか、例の黒いデコボコの絵がそこら中に置いてありました。
直樹は珍しそうに部屋中を眺めていましたが、その内に「おやっ?」と思いました。
意外な事に、それらの絵に混じって、白い肌の美しい裸婦を写実的に描いた絵が何枚かあったのです。
「そうだ、さっきの女性だ!」と直樹は思いました。
「顔も良く似ている・・・これは写実じゃないか!」
直樹は中年の風格のある黒岩に聞きました。
「このような絵も描かれるのですか?」
その返事は、「最近たまに描くようになった」との事でした。
直樹は続けて聞きました。
「貴方の若い頃の芸術論とは矛盾はしないのですか?」
それに対する返事はありません。
直樹は疑問を抱いて正直に言いました。
「この間の美術館でも感じた事なのですが、人に好かれる絵を描いてはいけないという芸術論と、会場が混雑して人気があるという事とは矛盾しないのですか?」
直樹は自分の言葉に「はっ」として驚きました。
「こんな事を話す為に来たのではなかった筈だ・・・どうしよう・・・気を悪くしてしまっただろうか?」
黒岩は言いました。
「ただ何時の時代でも、自分に正直に描きたい物を描いているだけだ」
直樹はその時思いました。
「緑の時代」、「赤の時代」、「黒の時代」、そしてその後は「白い肌の裸婦の時代」になるのではないだろうかと・・・。
直樹は自分の絵を見てもらう為に、キャンバスを数枚持って来ていましたが、真似をしていると思われるのが嫌になって、黒岩に見せずにそのまま帰って来てしまいました。
「こんな筈ではなかったのに・・・もっと聞きたい事が沢山あったのに・・・何故あんな批判的な話ばかりになってしまったのだろう」
肌の白い美しい女性と出会って動揺したせいなのか、それとも美術館に行った時にすでに感じていた事なのか・・・。
・
正直に言うと、美術館に行った時に黒岩の才能に驚いただけではなく、同時に何か嫌な面も見てしまったような気がしていたのです。
例えばあの黒いデコボコの渦巻きや曲線の筆使いに、何か人に媚びるようなものを感じていたのでした。
「好かれようとしているのではないだろうか?」
直樹は直感的にそう思いました。
それは黒岩の芸術に対する「不信感」でした。
その後、何人かの人から黒岩の評判を聞きましたが、事故で夫人と娘さんが亡くなる以前から、黒岩には若い愛人がいたらしいとか、夫婦仲が悪かったとか、多額の借金をしているとか、友人がいないとか、全く良くない話ばかりなのです。
ある評論家の文章の中に「黒岩克彦は矛盾の画家である。若い頃の作品も今では古臭く感じるし、黒の時代の作品も何か嘘っぽいものを感じる」と書いてあるのを読んで、直樹は頷くのでした。
まだ若い直樹にとっては、黒岩の芸術に対する不信感だけではなく、黒岩の愛人関係が非常に嫌らしいものに感じられるのでした。
香水の香りも、イヤリングも、ネックレスも、白い肌も、全てが皆嫌らしく感じられるのでした。
・
問題が起きたのはそれから二週間後の事でした。
美大の教室は大騒ぎでした。
直樹が死んだのです。
手首を切ったのです。
自殺をする人というのは、何かに対して怒りを感じているとか、もしくは苦しみながら死ぬものだと思うのですが、彼の場合は違っていました。
彼は自分の暗くて狭い部屋の中で、大の字になって、少し薄ら笑いを浮かべたような顔で死んでいたそうです。
手首をカミソリでかなり深く切ったらしく、部屋中に血が飛び散っていましたが、遺体の横にはキャンバスと遺書らしきものがあったそうです。
その遺書らしきものには、「先生!私は作品を完成させました!」と、一言書いてあるだけでした。
そばにあったキャンバスというのは、例の灰色の絵に手を加えたものらしいのですが・・・
その灰色のキャンバスの上から、黒と白の絵の具を新たにベッタリと塗りたくり、その上から手首をカミソリで切って、噴き出した血の赤で塗り潰してあったのです。
全体的には「赤と灰色と黒」が曲線を描いてうごめいているような「凄み」を感じる作品になっていました。
直樹の作品は、血の赤い色を得て、ついに完成したのです。
彼は満足感に浸りながら、大の字になって永遠の眠りにつきました。
十九年の短い一生を、彼は彼なりに芸術の為に精一杯生きようとしたのです。
私は彼にエールを送りたいと思います。
一生に一枚だけの完成した絵を描いた前衛画家に・・・。
私は凄みを感じる。
その一つは、「読む展覧会」です。
文字だけを使って、「絵画鑑賞」が出来るだろうか?
という実験小説なのです。
乱歩のような雰囲気のある実話だなって
思ったの。
arataさんの心の中が怖いわ。(マジ)
色彩を感じ取って欲しかったのです。
でも手塚治虫という漫画家は、幼い頃に精密な昆虫図鑑を作っている時に、絵の具の中に気に入った赤い色がないので、自分の指を切って血の赤い色で昆虫の色を再現したのです。
これね、以前読んだことがあります。
あらたさんだったのね。(これで2回目だわ)
とっても面白くて、本当の話だったら絵を見てみたいと思ったくらいでした。自分の血で絵を完成させる・・・オリジナリティーがあって納得いくものを創りたいという欲求、そのために命を使った、、、出来ないけど、わかるな。
コメントありがとうございます。
この短編はね、私の友人で学生時代から小説や詩を書いてた人が、アルバイトなどで知り合った5人の人たちと一緒に「記念に本を創りましょう」と言い出した事がきっかけで出来たものなのですよ。
でもこの短編を気に入ってくれたのは、その友人たった一人だけなのですよ。
ほとんど無視されていたのです。
ですからダンボさんに気に入って頂けて本当に嬉しいです。
> ほとんど無視されていたのです。
本当にそうなの?
いやぁ~、めちゃくちゃ面白いと思いました。
お世辞抜きで!!
どうも、どうも!
ダンボさんはお世辞を言う人ではないから、嬉しいですよ。
確かこの作品の筋書きは・・・
ある朝、目が覚めた時に突然に閃いたのですが、既にその時にはストーリーのほとんど全体が出来上がっていたのです。
こういう事は初めての事です。