昔のことよりもこれからのこと、ですが、、、、、もう少し詳しく、、、、、。
母の認知症が発覚したのは、5年ぐらい前です。
『カバンが無くなった。』『今は夜か?、朝か?』などの電話が頻繁に来るようになったことで、近くに住む叔母たちが、もう一人で住むのはむりなんじゃないか?との見解から、私とたった一人の姉は相談しました。
近所にも迷惑はかけられないし、第一、火災にでもなったら大変。
そのころ母は、料理の仕方を忘れていましたが、神様と、仏さまの水あげやお茶上げをしていて、お湯を沸かすのにガスを使っていました。そして、神棚は高いので、くるくる回る椅子の上によじ登って、榊やおみずをとりかえていたのです。
おかずは、近所の人や叔母が届けてくれていました。今思えば本当にありがたいことです。
私は、主人を亡くし、4番目の子も大学に入学していて、家には姑と私の二人きりでした。
畑仕事が生きがいの姑で、軽トラを乗り回し畑仕事に精を出し、売り場に作物を届け、まあ、私がいなくても近くに、主人の姉妹が住んでいますので、とりあえずは困ることはないだろうなと思いました。
そこで、姉妹夫婦に、母のことを話して、実家の福島に帰ってくることにしたのです。
震災、7ヶ月後のことです
そして、私は転勤のような形で仕事を続けながら、母は9時から3時半までデイサービスに通うという日々が1年3カ月続きました。その間長女のお産扱いがありました。長女にもお産だというのにいらない気苦労をさせてしまいました。
母は見た目はそのままなのに、昔の母ではなく、口ばっかり達者で心配性で、そのくせ、やることはなにも満足にできなくなっていました。
本人も、気が付いていたと思います。それが余計に腹ただしくて、私も娘も暖かく、受け止められませんでした。
私は仕事を変わり夕方早い時間に帰宅できる仕事にしました。
デイサービスももっと長く預かってくれる、小規模規模多機能住宅へ。
さて、きょうはここまで。