これからのこと 実家の整理と『老前整理』して生き生き暮らす

母の介護を終えて、自分ひとりになった私の日常を書いていきます。
甘えたくなる自分を励ましながら、日々精進です。

母の状態

2015-07-24 11:28:56 | 日記

母は、要介護3です。

今は、1秒前のことを覚えていません。

入れ歯を外して、容器に入れるのは覚えていますが、消毒をするのは忘れています。

洋服も何を着たらいいかは、全く分かりません。

今が何時か分かりません。常に朝です。

神様仏さまの水やりをしなくてはいけないのはわかるのですが、いつやればいいのか分かりません。

常にやろうとします。

常に不安です。わからないから。

自分がわすれてしまうのも分かりません。

私のことは、娘じゃなくてお姉さんらしい。

尿意がわかり、おトイレもわかります。

簡単な引き算足し算などの計算はできます。

時計も読めます。時間の意味はわかりません。6時が夜なのか昼なのか朝なのかの意味です。

私は、介護を楽しめるなんてできないと思っていました。今も、楽しんではいません。

最近は母の状態が重度になるにつれ、たまには怒ってしまうこともありますが、諦めができるようになりました。

何が大変かって、夜に何度も起きて、朝だと思うことです。

起こしてくるので、私は寝不足でした。

仕事どころじゃなかったのですが、睡眠導入剤の力を借りて、寝てもらうことにしました。

しかし、すぐには寝ません。あーあ、疲れる。

でも、私は母と一緒に住めて幸せなんです。母もきっと幸せです。娘と一緒にいられるのですから。

叔母も、なんだかんだいって、しあわせだよなーと言ってくれます。

きょうは、ここまで。

 


はじめましてに続き、ここまでのこと1

2015-07-22 09:42:02 | 日記

昔のことよりもこれからのこと、ですが、、、、、もう少し詳しく、、、、、。

母の認知症が発覚したのは、5年ぐらい前です。

『カバンが無くなった。』『今は夜か?、朝か?』などの電話が頻繁に来るようになったことで、近くに住む叔母たちが、もう一人で住むのはむりなんじゃないか?との見解から、私とたった一人の姉は相談しました。

近所にも迷惑はかけられないし、第一、火災にでもなったら大変。

そのころ母は、料理の仕方を忘れていましたが、神様と、仏さまの水あげやお茶上げをしていて、お湯を沸かすのにガスを使っていました。そして、神棚は高いので、くるくる回る椅子の上によじ登って、榊やおみずをとりかえていたのです。

おかずは、近所の人や叔母が届けてくれていました。今思えば本当にありがたいことです。

私は、主人を亡くし、4番目の子も大学に入学していて、家には姑と私の二人きりでした。

畑仕事が生きがいの姑で、軽トラを乗り回し畑仕事に精を出し、売り場に作物を届け、まあ、私がいなくても近くに、主人の姉妹が住んでいますので、とりあえずは困ることはないだろうなと思いました。

そこで、姉妹夫婦に、母のことを話して、実家の福島に帰ってくることにしたのです。

震災、7ヶ月後のことです

そして、私は転勤のような形で仕事を続けながら、母は9時から3時半までデイサービスに通うという日々が1年3カ月続きました。その間長女のお産扱いがありました。長女にもお産だというのにいらない気苦労をさせてしまいました。

母は見た目はそのままなのに、昔の母ではなく、口ばっかり達者で心配性で、そのくせ、やることはなにも満足にできなくなっていました。

本人も、気が付いていたと思います。それが余計に腹ただしくて、私も娘も暖かく、受け止められませんでした。

私は仕事を変わり夕方早い時間に帰宅できる仕事にしました。

デイサービスももっと長く預かってくれる、小規模規模多機能住宅へ。


さて、きょうはここまで。


はじめまして

2015-07-15 09:27:09 | 日記

はじめまして。 実家の母と暮らして早3年8カ月が過ぎようとしています。

認知症の母は、父が6年前に亡くなってから、一人暮らしをしていました。今年で87歳になります。

私は車で7時間はかかる遠い東北に住んでいて、父が闘病していた時もなかなか会いに行けませんでした。

東京にいる姉がしょちゅう来てくれていて、面倒見る日々が続いていました。

平成23年3月の東北震災の際には、家は無事だったものの、ライフラインが途切れて、隣人が親切にも姉のところに連れてきてくれました。3月17日のことです。

それから約3カ月間東京に滞在するも、姉も仕事をしていましたし、母はやっぱり自分の家に帰りたいとのことで、一人暮らしを再開しました。そのころにはライフラインも復旧していました。

しかし、しばらくすると、時々来てくれていた、歩いて10分ぐらいのところにいる母にとっては義理の妹達がなんだか様子が変だからもう一人では無理なんじゃないかなと言ってくれました。実際、バックが亡くなった、隣の人がとったんだとか、今何時かわかんなくなったとか、遠い私のところに電話がしょちゅう掛かってくるようになりました。

やっぱりこれは大変なことだと、姉といろいろ相談しました。幸いにも、私の家族状況は、主人は前の年に他界し、4人の子供たちはそれぞれ自分の仕事を持ったり、大学生で家を離れていて義母と二人暮らしでした。主人の姉妹が比較的近いところに嫁になっていたため、いつでも実家にはこれる状態なので、これなら私が実家の母の面倒を見れるかなあと、姉にも進言し、実家に戻ることにしました。

しかしすぐには戻れなかったため、その間、介護の申請、ヘルパーさんのお世話になったりと、私が行くまでつないでいました。

さあ、認知症の母の介護はそれから平成23年10月30日から始まりました。

 



これからの人生

主人を亡くし、母の介護で実家に一人戻り、母も見送り、4人の子供たちは、独立し、何の心配もないかに見える私の人生。 乳がんになってしまい、手術をし、一人、たくましく生きようと奮闘しています。