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いよいよ来年に迫った、2020 東京オリンピック・パラリンピック。
本題は、どうしてオリンピックとパラリンピックが別ものとして扱われるのか、
どうして一体化しないのでしょうか・・・
答えではなく疑問です。
本題に入る前に、開催についての私見・・・
日本での開催に反対する立場です。
何もなければ、たとえ商業主義といわれても、特に反対はしません。
(どちらかと言えば関心なし・・・)
何があるのか、なぜ反対なのか・・・
今の日本は、オリンピック・パラリンピックにリソースを割くべきではないと思うからです。
2011年3月11日・・・東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)。
その前には 1995年1月17日・・・兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)。
2014年8月には広島市土砂災害、2016年4月には熊本地震、
2018年6月には大阪府北部地震、2018年6月~7月には西日本豪雨、
2018年9月には北海道胆振東部地震・・・
どれも心の痛む災害。
もしかして予測と対策が十分なら被害を小さくすることができたかも知れませんが、
どうしても書いておきたいのは 3.11。
3.11 は、地震・津波だけではなく、それに伴う人災(福島第一原子力発電所事故)。
避難者は 164,865人(ピーク時、2012年5月)、43,214人(2018年12月) にもなるそうです。
(出典: 福島復興ステーション https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/list271.html)
楽しむな、自粛せよと言っているわけではありません。
いろんなシーンで楽しめばよいと思います。
ですが、借金大国(おそらく世界一)の日本なので
オリンピックに使うくらいなら、
そのリソース(人・モノ・金)を復興に使うのが妥当だと思います。
将来から(自分たちも含め、子や孫から)借金をして回しているお金です。
使い道を考える、選択と集中は当然です。
除染が終わらず、故郷に帰れない人がまだ 4万人以上もいる状況で
日本での開催はないだろう、
オリンピックに割く余裕はないだろう・・・と思うのです。
お金だけではありません。
工事するには人間も必要です。
かけがえのない人間の労力だから復興に向けてもいいのではないでしょうか。
3.11 のずっと前から招致活動をしていたとしても、
改めるに遅すぎることはありません。
状況・環境が変わっているのに既定路線を推し進める、
その考え方(考えていない姿勢、変えようとしない姿勢)が問題だと思います。
なので、引き返せない時期だとは思いつつも
日本での開催に反対しています。
閑話休題・・・
本題はオリンピックとパラリンピックがなぜひとつにならないのか、です。
障碍者への差別は、この日本でも許されることではありません。
その一方で、健常者(イヤな言葉です)とは別の配慮をするのは当然だと思います。
# 健常者という言葉がイヤなのは、
さも健康でフツーであることを強調しているように思うからです。
その対語は障碍者になるのでしょう。
障碍者が健康ではなくフツーではないように思えてしまいます。
言葉を無くせば(使わなければ)現実・実態が変わると思わせるような・・・
そんなユーフェミズム(euphemism)はキライです。
退却を転進と言うような、敗戦を終戦と言うような、
言葉をオブラートくるんでキレイごとに変えるような言葉遣いは
言葉に対するレイプです。
ですが、健常者と言う語は、障碍者と対置するようで、
どこか勝ち誇ったような響きを感じるので、やはり好きになれません。
再び、閑話休題・・・
2000年のシドニーオリンピックで、
IOC(国際オリンピック委員会)とIPC(国際パラリンピック委員会)との間で正式に協定が結ばれ、
パラリンピックがオリンピックに続いて開催されることと、
IPCからのIOC委員を選出することが両者間で約束され、
オリンピック開催都市での開催が正式に義務化されたとのこと。
(出典: Wikipedia パラリンピック)
生まれが違うとはいえ(第1回オリンピックは 1896年アテネ大会、第1回パラリンピックは 1960年ローマ大会)、
前述のとおりオリンピックとパラリンピックを連続して同じ都市で開くことになったのだから、
もうそろそろ同じ組織・同じ名前になってもいいのではないでしょうか。
オリンピックといえば(現在の)オリンピックと(現在の)パラリンピックのことだと
誰もが思うようになってもいいのではないでしょうか?
(先に誕生したオリンピックに敬意を表して、
オリンピックがパラリンピックを包含してもいいでしょう)
# 公式スポンサーの意向もあるでしょう(商業主義が垣間見えます)。
既存委員会に属する委員たちの思惑もあるでしょう(既得権益を手放さない人たちがいます)。
実現は夢だと思いつつも、ひとつになることを望んでいます。
同じ人間が競いあうスポーツの祭典なら、それを別の呼び方にする必要はないはず。
(繰り返しになりますが、どちらもオリンピック、ひとつでいいと思います)
余談ですが・・・
こんなことを思うのは、「パラ(para)」という接頭辞に良い印象を持っていないから。
補助とか、欠陥とか・・・そんなイメージを持っています。
「パラ」リンピックに否定的な印象を受けるからです。
でも、そこに込められた意図・意味はそうではないようです。
パラリンピックの「パラ」はギリシャ語の前置詞で「並んで立つ」という意味があり、
ここでは「対等」という意味を持つ、そうです。
パラリンピックの「パラ」の意味 障害者の苦難と希望の歴史がそこにある
それが正しいとしても、あえて「対等」と言う必要は、今の時代にはないと思います。
前述のとおり障碍者への配慮は必要だとしても、人間として対等なのは当たり前だからです。
当たり前のことなら、言う必要はありません。
あえて「対等」だと言うところに時代を感じるのは私だけ?
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本題は、どうしてオリンピックとパラリンピックが別ものとして扱われるのか、
どうして一体化しないのでしょうか・・・
答えではなく疑問です。
本題に入る前に、開催についての私見・・・
日本での開催に反対する立場です。
何もなければ、たとえ商業主義といわれても、特に反対はしません。
(どちらかと言えば関心なし・・・)
何があるのか、なぜ反対なのか・・・
今の日本は、オリンピック・パラリンピックにリソースを割くべきではないと思うからです。
2011年3月11日・・・東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)。
その前には 1995年1月17日・・・兵庫県南部地震(阪神淡路大震災)。
2014年8月には広島市土砂災害、2016年4月には熊本地震、
2018年6月には大阪府北部地震、2018年6月~7月には西日本豪雨、
2018年9月には北海道胆振東部地震・・・
どれも心の痛む災害。
もしかして予測と対策が十分なら被害を小さくすることができたかも知れませんが、
どうしても書いておきたいのは 3.11。
3.11 は、地震・津波だけではなく、それに伴う人災(福島第一原子力発電所事故)。
避難者は 164,865人(ピーク時、2012年5月)、43,214人(2018年12月) にもなるそうです。
(出典: 福島復興ステーション https://www.pref.fukushima.lg.jp/site/portal/list271.html)
楽しむな、自粛せよと言っているわけではありません。
いろんなシーンで楽しめばよいと思います。
ですが、借金大国(おそらく世界一)の日本なので
オリンピックに使うくらいなら、
そのリソース(人・モノ・金)を復興に使うのが妥当だと思います。
将来から(自分たちも含め、子や孫から)借金をして回しているお金です。
使い道を考える、選択と集中は当然です。
除染が終わらず、故郷に帰れない人がまだ 4万人以上もいる状況で
日本での開催はないだろう、
オリンピックに割く余裕はないだろう・・・と思うのです。
お金だけではありません。
工事するには人間も必要です。
かけがえのない人間の労力だから復興に向けてもいいのではないでしょうか。
3.11 のずっと前から招致活動をしていたとしても、
改めるに遅すぎることはありません。
状況・環境が変わっているのに既定路線を推し進める、
その考え方(考えていない姿勢、変えようとしない姿勢)が問題だと思います。
なので、引き返せない時期だとは思いつつも
日本での開催に反対しています。
閑話休題・・・
本題はオリンピックとパラリンピックがなぜひとつにならないのか、です。
障碍者への差別は、この日本でも許されることではありません。
その一方で、健常者(イヤな言葉です)とは別の配慮をするのは当然だと思います。
# 健常者という言葉がイヤなのは、
さも健康でフツーであることを強調しているように思うからです。
その対語は障碍者になるのでしょう。
障碍者が健康ではなくフツーではないように思えてしまいます。
言葉を無くせば(使わなければ)現実・実態が変わると思わせるような・・・
そんなユーフェミズム(euphemism)はキライです。
退却を転進と言うような、敗戦を終戦と言うような、
言葉をオブラートくるんでキレイごとに変えるような言葉遣いは
言葉に対するレイプです。
ですが、健常者と言う語は、障碍者と対置するようで、
どこか勝ち誇ったような響きを感じるので、やはり好きになれません。
再び、閑話休題・・・
2000年のシドニーオリンピックで、
IOC(国際オリンピック委員会)とIPC(国際パラリンピック委員会)との間で正式に協定が結ばれ、
パラリンピックがオリンピックに続いて開催されることと、
IPCからのIOC委員を選出することが両者間で約束され、
オリンピック開催都市での開催が正式に義務化されたとのこと。
(出典: Wikipedia パラリンピック)
生まれが違うとはいえ(第1回オリンピックは 1896年アテネ大会、第1回パラリンピックは 1960年ローマ大会)、
前述のとおりオリンピックとパラリンピックを連続して同じ都市で開くことになったのだから、
もうそろそろ同じ組織・同じ名前になってもいいのではないでしょうか。
オリンピックといえば(現在の)オリンピックと(現在の)パラリンピックのことだと
誰もが思うようになってもいいのではないでしょうか?
(先に誕生したオリンピックに敬意を表して、
オリンピックがパラリンピックを包含してもいいでしょう)
# 公式スポンサーの意向もあるでしょう(商業主義が垣間見えます)。
既存委員会に属する委員たちの思惑もあるでしょう(既得権益を手放さない人たちがいます)。
実現は夢だと思いつつも、ひとつになることを望んでいます。
同じ人間が競いあうスポーツの祭典なら、それを別の呼び方にする必要はないはず。
(繰り返しになりますが、どちらもオリンピック、ひとつでいいと思います)
余談ですが・・・
こんなことを思うのは、「パラ(para)」という接頭辞に良い印象を持っていないから。
補助とか、欠陥とか・・・そんなイメージを持っています。
「パラ」リンピックに否定的な印象を受けるからです。
でも、そこに込められた意図・意味はそうではないようです。
パラリンピックの「パラ」はギリシャ語の前置詞で「並んで立つ」という意味があり、
ここでは「対等」という意味を持つ、そうです。
パラリンピックの「パラ」の意味 障害者の苦難と希望の歴史がそこにある
それが正しいとしても、あえて「対等」と言う必要は、今の時代にはないと思います。
前述のとおり障碍者への配慮は必要だとしても、人間として対等なのは当たり前だからです。
当たり前のことなら、言う必要はありません。
あえて「対等」だと言うところに時代を感じるのは私だけ?
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ただし、お名前(本名の姓 and/or 名)を書いていただいた場合に限らせていただきます。
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