タチアオイ(立葵)
英名はホリホックHolly hock。
下から上に向かって咲く性質があるという。梅雨入り頃に下から咲き出す。
梅雨明けにてっぺんが咲く。気象庁の観測花・・・梅雨入り、明けを宣言。(冗談!)
さて、今日はヘレン・ハイド(HH)の初訪日の時の話。
HHが銅版画家だというので、銅版画を調べてみた。
銅の板に凹面を作ってインクを流し込み、紙を押し当てプレス機で印刷する。
要約するとそんな内容。
凹面を作る方法には鑿で彫る、防錆・腐食剤を使用して作る、の二通り。
後者をエッチングといい、彼女が用いたのはこちら。
さて、来日早々、HHと銅版画家ハイドは狩野友信に日本画を習う。
その友信を通じ、お雇い外人教師で来日中のフェノロッサと知り合う。
そして彼から木版画の制作を薦められる。
HHは浮世絵にも関心があったので、オーストリアの版画家エミール・オルリックから木版の技術を学ぶ。
興味深いことに彼もジャポニストの一人で、1900年に木版技術を学ぶ目的で訪日しているのだ。
彼自身、絵は狩野友信に習っているが、それとは別に彫師、刷師からも技術を教わっている。
オルリックは、当時の日本の風景などを遺してくれているので、そのうち彼のことも紹介したい。
今日は、彼のポートレート、狩野友信を描いた絵、刷り師の絵を掲載する。
HHは、来日前にジョセフィン・ハイドから銅版画の基礎を学んでいる。
が、同行して訪日していながら、彼の情報は何も無かった。なぜ?
また、来日後に、HHはバーナード・リーチからエッチングの指導を受ている。
さて、HHは、フェノロッサに薦められた木版画技術をオルリックに教わる。
そして、1900(明治33) 年 から01年にかけて多くの木版画を作成する。
今日はその時期の作品から幾つか掲載しよう。(前回と重複あり)
フェノロッサに薦められて始めた木版画により、HHの絵は評判になった。
しかし、彼や版元と彼女との間に思わぬ落とし穴が待っていた。
だが、それはHHが2度目に来日してからのことである。
では続きは明日ということで。
明日またお会いしましょう。
[Rosey]