かつてない改革者と期待された皇太子
はたして彼は、本気で祖国を造り替えようとしているのか? それとも改革はうわべの顔だけで、暴君として牙を剥く機会をうかがう怪物なのか? この記事がフォーカスを当てるサウジアラビア皇太子ムハンマド・ビン・サルマンは、1985年8月31日に生まれた。まさしくミレニアル世代の一員で、まだ33歳の若さだが、83歳と高齢で健康不安のつきまとう(認知症の初期段階にあるともささやかれる)実父サルマン国王の手足となって、実質的にサウジの国家運営を担ってきたと考えられている。イスラム教の2大聖地であるメッカとメディナを国内に有し、イスラム法を厳格に遵守し、司法でさえもがコーランの教えに縛られている、というそんなサウジアラビア王国の中枢にありながらも、ムハンマド皇太子は古い制度や習慣にとらわれない政策やビジョンを次々に打ち出し、若い世代の期待を一身に担ってきた。
ところがそこに、ショッキングな事件が起きる。サウジアラビア政府に批判的だったサウジアラビア人ジャーナリスト、ジャマル・カショギ氏が2018年10月2日、トルコの首都イスタンブールのサウジアラビア総領事館を訪れたあとで消息を断ち、総領事館内で殺されたことがのちに判明した事件のことだ。殺害を命じた黒幕はムハンマド皇太子である、と米CIAは結論づけた。
この事件をきっかけに、欧米諸国がムハンマド皇太子に抱いていた期待は幻滅へと反転し、彼への眼差しはすっかり冷たいものへと様変わりした。その急変ぶりに戸惑い、うろたえているのが、皇太子の勇姿に自分たちの将来の夢を重ねてきたサウジの若者たちだ。事件後、カショギ氏の死亡をサウジアラビア政府がしぶしぶ認めることになる前に、ひとりの青年とレバノンのベイルートで会う機会があった。高等教育を受け、欧米から学ぼうとする意欲と野心に満ちており、ミレニアル世代の皇太子がその改革手腕を発揮することで、欧米の若者たちと質的に変わらない暮らしぶりを自分たちにもたらしてくれるのだと信じるサウジアラビア人のひとりである彼は、ベイルートの酒場で私とジンのグラスを傾けながら、「カショギ氏は生きています。ぼくの言葉を信じてください」と絞り出した。若者の声の悲痛さは、このまま泣き出してしまうのではないかと心配になるほどだった。
「いや、生きてはいないし、彼らが殺したんだ。きみだってそれはわかっているのじゃないのか?」。できうる限りに気持ちを思いやりながら、私は相手を諭した。信じていたムハンマド皇太子が微笑みの仮面の奥に隠していた素顔を覗かせたことが、彼にはどれほどのショックだったのだろうかと想像しながら。
じっさい、欧米人がサウジアラビアに抱く嫌悪感や不信感は根強い。潤沢なオイルマネーに支えられた金満国家でありながら、イスラム教の教えを社会のあらゆる場面で何よりも優先し、近代的な人権感覚を持ち合わせず、女性を家庭に閉じ込めておき、公開斬首に代表される野蛮な刑罰をいまだに続けている。私たちの目からすれば、ムハンマド皇太子とて贅沢三昧の王族が国の中枢に居座り続ける構図を背景に表舞台に出てきた人物に過ぎないわけだが、サウジアラビア社会の制約の中で育った彼のような若者の目には、ムハンマドは真に革命的な化をもたらしてくれる救世主のように映っていたに違いない。
初代国王の息子たちが歴代国王を独占
サウジアラビアという国名は、「サウド家のアラビア」を意味する。その名の通りに、初代国王であるアブドゥルアズィーズ・イブン・サウドがアラビア半島の大部分を占める地域を武力統一し、1932年に建国した国である。アブドゥルアズィーズ(在位1932~53年)は25人の妃のもとに37人の男子をもうけたと言われており、第2代から第7代にあたる現在のサルマン国王に至るまで、歴代の国王はすべて初代の息子たちが占めてきた。
きら星のようなその第2世代の中でも、とりわけ有力な派閥をなしてきたのが、「スデイリー・セブン」と呼ばれる7人の王子たちだ。初代アブドゥルアズィーズから格別の寵愛を一身に受けたスデイリー家の女性ハッサを共通の母とする王子たちからは、すでに第5代のファハド国王(在位1982~2005年)が出ていたし、スールタンは国防大臣を48年間、ナーイフは内務大臣を37年間務め、どちらも異母兄の第6代アブドラ(アブドゥッラー)国王(在位2005~15年)のもとで皇太子の地位にあったが、それぞれ2011年と12年に、即位の機会が訪れぬままに死去していた。
そんな兄たちに続けて皇太子になっていたサルマン・ビン・アブドゥルアズィーズ(1935年~)が第7代国王に即位したのは、先代のアブドラが2015年1月23日に死去したのを受けてのことだ。即位時点で79歳と高齢であり、前述のスデイリー・セブンには彼より7歳ほど若いアハマド王子という有力者もまだいたのだが、サルマン新国王は次代国王を初代アブドゥルアズィーズの孫にあたる第3世代から選ぶ考えを表明し、世代交代の種がまかれた。
そのサルマン国王にも12人の息子と1人の娘がおり、ムハンマドは上から8番目の子になる。兄たちの中には世界的な有名人もいた。次男スールタンはアラブ人そしてムスリムとして史上初めての宇宙飛行士となり、1985年にスペースシャトル「ディスカバリー号」で宇宙空間に飛び出した人物である。そしてまた、別の兄には、競馬界で世界的に有名な大馬主もいる。
そういった兄たちとは対照的に、7男のムハンマドは国内のキング・サウード大学で法学を学び、外国で派手に活躍することもないままに父の元に留まっていた息子だった。ところがその彼が、父サルマンの国王就任と同時に29歳にして国防大臣兼王宮府長官に大抜擢され、同じ2015年の4月には副皇太子ともなったのである。それにより、2011年から父サルマンの特別顧問を務めてはいたものの対外的には無名の存在だったムハンマドが8代目国王の有力候補として急速に存在感を高めていき、ムハンマド・ビン・サルマンを略したMBSという呼び名が国内外で広まっていく。略称が必要なほどの人物になったということだ。
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トランプ大統領に祝福されるかのように皇太子へと昇格
父サルマンの国王即位後、実子ムハンマドが副皇太子に昇格したのと同時に、王位継承順位1位の皇太子になったのが、ムハンマド・ビン・ナーイフ(1959年~)だった。「スデイリー・セブン」のひとりでサルマン国王の兄のナーイフ・ビン・アブドゥルアズィーズ元内務大臣(1934~2012年)を父に持ち、MBSの従兄弟にあたる人物である。このムハンマド・ビン・ナーイフはアメリカのFBIやロンドン警視庁で研修を受けたあと、1999年からテロ対策に当たってきた人物で、対アルカイダ作戦行動を通じてアメリカとの太いパイプをもつ有能な政治家だった。
ところが2017年7月20日、そのムハンマド・ビン・ナーイフがサルマン国王によりいきなり皇太子を解任され、それ以後は自宅軟禁を強いられている。彼は2009年にアルカイダ工作員の自爆テロ攻撃を受けて体内に除去できない破片が残り、鎮痛剤が手放せなくなっていたのだが、そうした薬剤の常用により判断力に問題が生じたというのが表向きの理由だった。そして同時に、MBSが皇太子に昇格し、王位継承順位1位となった。こうやって対抗馬が次々に排除されていき、サルマン国王の最愛の息子が実権を独り占めする構図が出来上がっていく。
サウジアラビアには国会に相当する諮問評議会はあるものの、議員は国王による任命制で選挙もなく、国家運営は王族に独占されてきた。しかし、王族内にもさまざまな派閥があり、要職のポストを分け合うことで、牽制と相互監視の仕組みがこれまでは働いてきた。サルマン国王はみずからの高齢と健康問題を心配するあまりにか、年長者の優遇も含めたそれまでの慣例を破って実子ムハンマドを優先したのだ。自分の血筋を盤石に保つことを重んずるあまりのことなのだろうか。
それにはアメリカの後押しもあった。2017年初めに就任したトランプ大統領が初の外遊の1国目にサウジアラビアを選び、同年5月20日の米アラブ・イスラム・サミットに出席するために、首都リヤドを訪れたのだ。
オバマ政権時代のアメリカは長年対立していたイランと和解し、核開発の放棄と引き換えに経済制裁を段階的に解除する核合意を結ぶなど対イラン政策に重点を置き、サウジへの関与の度を低下させていた。しかしトランプ新大統領は目立った成果を求めて真っ先にサウジに飛び、サルマン国王と会談して1100億ドル(約12兆円)分の武器売却契約をまとめたのだ。このサミットはサウジにとってもムハンマドをトランプ新大統領に引き合わせ、近隣国首脳が揃った場でその若々しさと存在感を印象づける恰好の舞台となった。トランプ大統領と初対面してその関心を自国に引き戻し、言うなればその祝福を受けたことが、国内向けにも大きな宣伝材料となったのだ。先に述べた皇太子への昇格も、このサミットから1カ月後のことであり、新大統領による信任が後押しになった一面もあるのだろう。そうしてトランプ大統領と良好な関係を築いたことで、自分は何をしても許されるという間違った考えを、ムハンマド新皇太子は抱きはじめたのかもしれない。
さまざまな改革を打ち出しはしたけれど……
いずれにせよ、2015年1月の父サルマン国王就任と同時に表舞台に登場して以来、ムハンマドが数々の改革やビジョンを打ち出してきたのは事実だ。2016年には石油依存からの脱却を目指す長期計画「ビジョン2030」を発表したし、同年4月には宗教警察「ムタワ」からイスラム法違反者をその場で逮捕する権限を剥奪した。そして2018年になってからは映画館を合法化し、女性による自動車運転免許の取得も解禁となり、女性がスタジアムでスポーツを観戦することもできるようになった。
たしかにそれらは、これまでのサウジアラビアから考えれば画期的なことではある。殺害されたジャーナリストのカショギ氏も、当初はムハンマドの改革姿勢に期待を寄せていた。ならばそこからさらに進んで、古い社会制度を打ち破り、欧米と遜色ないまでの自由な国にサウジを造り替えるつもりが彼にはあるのか? ここに、見逃してはならない重要な論点がある。
長年中東から報道してきた筆者も、サウジの変化を予感したひとりだ。2015年11月に王宮を訪れたとき、改革案が並んだマニフェストを手渡された。経済改革がその中心にあり、石油依存からの脱却や政府歳出の削減、若者が政府による高給の仕事に依存する構造を改めることが綴られていた。さらに、女性の機会を拡大し、諸外国との交流を深めて対外イメージを向上させるということや、人権団体の訪問を認めるというこの国では信じがたい題目すらが並んでいた。
だが、それから2カ月後の2016年1月2日、47人もの大量処刑が実施された。うち43人が斬首であり、イスラム教シーア派の高位聖職者ニムル師も首をはねられた。このショッキングなニュースに触れて前述のマニフェストを改めて見直すと、重要なことに気づく。政治制度と司法制度の変革については、そこにはひと言も触れられていないのだ。
ムハンマド皇太子が社交的な笑顔の奥に包み隠してきた本性が、ちらりとそこに片鱗を見せているかもしれない。改革への意欲にうそ偽りはないのだとしても、保身をすべてに優先する意識がつねにあり、衝動的で怒りっぽく、暴走しがちな性格が見え隠れするのだ。そういった観点からふり返ると、ジャマル・カショギ氏殺害事件より前にも、衝動的な暴走とも思える行為を彼が何度かくり返してきたことがわかる。
最初の事例が、イエメン内戦への介入だ。2015年1月に勃発した内戦でイランが反政府武装勢力フーシ派を支援したことで反イラン感情が刺激されたのだろう。国防大臣だったムハンマドは空爆に打って出て、泥沼と化した内戦に引きずり込まれ、手を引けずにいる。
そして2017年11月には、サウジアラビアを訪問中だったレバノンのハリリ首相が現地で辞任を表明するという不可解な出来事があった。ハリリ首相はサウジアラビアとの二重国籍を持ち同国にゆかりの深い人物ではあるが、ぶかぶかの靴を履いているなど、何らかの拘束や強要を受けて、そう言わされた疑いが濃厚だった(じっさい帰国後に辞任表明を撤回している)。
そうした果てに起きたのが、2018年10月のジャマル・カショギ氏殺害事件だ。サウジアラビア政府は頑として認めてはいないものの、ムハンマド皇太子が殺害を命じたことは世界の共通認識であり、彼の評判は地に墜ちた。
そういう結果を招きかねないことが、皇太子にはわかっていなかったのか? いや、わかってはいたのかもしれない。ただ、高額の武器購入を通じてトランプ大統領の信任を獲得し、彼を後ろ盾に得たことで、先にも述べたように、自分はもう何をしても許されるのだと思い込んでしまった、ということはあるのかもしれない。事実、トランプ大統領も当初はできるだけ彼をかばおうとしていた。
あの事件を受けて、さすがにサウジアラビア王族内からも、ムハンマド皇太子を更迭すべきだという声はあがった。けれどもいつしかそれも沈静化し、このまま彼を次の国王として押し立てていくということになってしまった。
ムハンマドを排撃しようという動きは、これまでにもなかったわけではない。2018年前半には1カ月以上も彼が公に姿を見せなかったことがあり、4月にリヤドの王宮付近で起きた銃撃事件で負傷していたことが後にリークされた。それもあってか、彼は近ごろでは紅海沿いのジッダの港に停泊する高級ヨットで寝泊まりしているのだという。
カショギ氏殺害事件後の11月、サルマン国王はムハンマド皇太子をそのヨットから呼び寄せて、国内をめぐる巡察旅行に連れ出した。先祖のシャイフ(部族の長老、首長、賢人)たちが行っていたような領内巡察をすることで、皇太子を民衆にお披露目し、彼こそが次の王なのだと印象づけようというのだ。ハーイルという巡礼路都市を一行が訪れたときには、黒い長衣をまとってヘッドドレスを頭にのせた丸ぽちゃの可愛らしい青年が、震えがちな声で歓迎の詩文を朗読した。「われらが国土の守り手である王さま、ようこそいらっしゃいました! われらが国王の皇太子にして、慈愛と寛容の誉れ高きムハンマドさまも、わざわざのお運びをありがとうございました。空の色もおふたりを祝福しているようです」と。
どうだろうか? われわれ欧米人の目には、ゾッとするような個人崇拝と映るのだろうか? しかし、それこそがサウジアラビアという国のリアルなありようなのだ。
2017年9月5日にジッダで行われたサッカーW杯ロシア大会、アジア最終予選グループB、サウジアラビア対日本戦の会場で、サルマン国王とムハンマド皇太子の写真を掲げるサッカーファンたち
ジャーナリスト、ジャマル・カショギ氏の失踪を受けて、トルコ・イスタンブールのサウジアラビア総領事館前で抗議のデモをするNGOの面々。2018年10月8日。
米アラブ・イスラム・サミットにて会合中のトランプ大統領(左)とサルマン国王(右)。
米大統領上級顧問のジャレッド・クシュナーが左端に座っている。2017年5月21日