京都市東山区山科にある
天智天皇陵。
第39代 天 智 天 皇
父は第35代舒明天皇、
母は皇后・宝皇女(第36代皇極天皇・第38代斉明天皇)。
葛城皇子、中大兄皇子ともいわれ、
中臣鎌足と共に、蘇我家を滅ぼし、
政治改革(大化の改新)を行った人物です。
この方の話(・・・というかこの時代の話)は一言では、
難しい!
ポリポリ(。;´Å`)9ウーン…
簡単に説明すると・・・・
父・舒明天皇崩御後、
異母兄・古人大兄皇子、
山背大兄皇子(聖徳太子の子)、
中大兄皇子と後継者候補があり、定まらず、
母・宝皇女が即位(第36代皇極天皇)。
その頃は蘇我氏全盛期!
蘇我蝦夷・入鹿親子は皇極天皇の後継に、
古人大兄皇子をつけるため、山背大兄皇子を襲い、
上宮王家(聖徳太子の一族)を滅ぼします。
それに怒った中大兄皇子は中臣鎌足と共に蘇我氏を滅ぼします。
皇極天皇は弟・軽皇子に譲位(史上初)し、
第37代孝徳天皇が即位。
皇太子となった中大兄皇子は政治改革を行います。
(これが大化の改新です。)
孝徳天皇は中大兄皇子と中臣鎌足の傀儡天皇状態で、
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)に遷都しますが、
中大兄皇子は大和(奈良)に帰ってしまいます。
この時、主な臣下だけではなく、
孝徳天皇の皇后(中大兄皇子の妹・間人皇女)まで帰っていまい、
失意のうち、難波宮で崩御。
その後、再び母が即位(第38代斉明天皇)。
斉明天皇崩御後もすぐには即位せず、
667年、近江大津宮(滋賀県大津市)に遷都。
翌年、即位しました。
皇太子に弟・大海人皇子を付けますが、
天皇の皇子・大友皇子に皇位を譲りたいと考え始めます。
これが壬申の乱のきっかけです。
簡単に説明しても、こんだけ長い!
なので、またおいおい・・・・・。
天智天皇は近江宮で崩御(諸説あります)。
山科陵に葬られました。
御廟野古墳が宮内庁が管理する天智天皇陵です。
ここは陵墓=天皇陵で間違いない陵墓の一つ。
(もう一つは天武・持統天皇陵)
県道143号の道沿いに天皇陵の入り口があります。
長-----い参道。
この写真の一番奥に、
陵墓の入り口に門があります。
そしてさらに長い参道の先に・・・・
天智天皇の陵墓があります。
上円対辺長約46m、下方辺長約70m、高さ8mの八角墳。
当初、上円下方墳と考えられていました。
政治の中心が蘇我氏→天智天皇と動いたように、
江戸幕府→明治天皇という図式が重なったのか、
明治天皇陵は、この天智天皇陵を参考にして築造されました。
しかし!
王者の墓の形が実は八角墳でした!!
と分かったのは近年。
それが判明した後の昭和天皇陵は、やはり上円下方墳。
まぁ、明治天皇・大正天皇に倣ったって感じでしょうが。
ちなみに宮内庁は天智天皇陵は「上円下方墳」といってますけどね。
この陵墓は緑豊かで、ほっとする空間ですよ。
一度、行ってみて
京都市東山区 天智天皇陵