石ころ

しるしではなくイエスをキリストと語る(ヨハネの福音書12章)

 

大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。(9)

 

群衆はイエスをキリストとして礼拝に来たのではなく、御わざに惹かれてやって来てラザロを見物するのである。
御わざが大きければ大きいほど人はわざに心を奪われて、主を礼拝すること、みことばに従順することを蔑ろにするのは、主ご自身を求めない的はずれである。

 

今も神の御わざはみこころのままに成されるが、主はラザロの穏やかな日常を奪うような位置には置かれなかった。
平凡な日々の中で無数に発生している癌を癒やし、トラブルをそっと執り成し、災いから守り導いて生かし、関係をも執り成して平和を備えていてくださる主。

 

それがあまりにもさりげない方法なので絶え間ない恵みに気付かない。恵みのさり気なさは人の弱さ愚かさをご存じだからである。それゆえ、「何時も喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝」していなければならないのである。

 

祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。(10~11)

 

死者をよみがえらせた神を殺すことなど、少しでも知恵があるなら思いつくことではない。どうしてそのような愚かな結果に至るのであろう。しかし、それには初めに神の計画が在ることであった。

 

その翌日、祭りに来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞いて、
なつめ椰子の枝を持って迎えに出て行き、こう叫んだ。「ホサナ。祝福あれ、主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に。」(12~13)

 

イエスは真の王、天地のすべてを創造された方であり、天地は主のものである。
しかし、この王を迎える道に敷かれたものはすぐに枯れてしまう葉っぱであり、一時の間に反転する人のほめことばで讃え迎えられた。

 

死を打ち破りみこころを成し遂げられるイエスの栄光の御わざは、人の罪による裏切りと、弱さと無知の中に成就された。

 

イエスはろばの子を見つけて、それに乗られた。次のように書かれているとおりである。
「恐れるな、娘シオン。見よ、あなたの王が来られる。ろばの子に乗って。」
これらのことは、初め弟子たちには分からなかった。しかし、イエスが栄光を受けられた後、これがイエスについて書かれていたことで、それを人々がイエスに行ったのだと、彼らは思い起こした。(15~16)

 

弟子を導くみことばの備えは、預言によってイエスが神のキリストであることを証し、永遠のいのちの主であることを弟子に知らせて、その真実は殉教にまで彼らの信仰を守った。そう、キリスト者の確信はわざには拠らず、みことばが開かれて確信となるのである。

 

さて、イエスがラザロを墓から呼び出して、死人の中からよみがえらせたときにイエスと一緒にいた群衆は、そのことを証しし続けていた。(17)

 

彼らは見たことを語り続けた。それは四日も経った死者が生き返ったことを目で見たからである。しかし彼らが語り続けたことは、イエスはキリストであるという事実ではなかった。
イエス・キリストを告白するのは聖霊の導きに拠ることだからである。

 

群衆がイエスを出迎えたのは、イエスがこのしるしを行われたことを聞いたからであった。
それで、パリサイ人たちは互いに言った。「見てみなさい。何一つうまくいっていない。見なさい。世はこぞってあの人の後について行ってしまった。」(18~19)

 

彼らが神を恐れる者であったなら、このような時は全ての働きを置いて御前に静まるであろう。
物事が思うように行かない時に成すべきことはただ一つ。すべての働きを止め置いて、主の御前出て聖霊の導きに拠るみことばを待つ時である。
主は最善を導いてくださり、お交わりの中で主に信頼することを学んで成長させてくださる。

キリスト者にはこの世の出来事がすべてではなく、それらを通して主を経験することこそすべてだからである。


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