
また、立って祈るとき、だれかに対して何か恨みに思うことがあれば、赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちを赦してくださる。」
*もし赦さないなら、あなたがたの天の父も、あなたがたの過ちをお赦しにならない。(マルコ11:25~26)
「恨んではならない」ではなく酷い仕打ちを受けて恨んだとしても、主に在って赦しなさいである。
「十字架にまでかかってあなたを赦してあげたのだから、わたしに免じて赦してあげなさい」と聞こえる。
恨みを抱えた心はイエス様との交わりの妨げになる。それは人間関係のことではなく主と私の問題である。それらは主に明け渡して過ぎ去らせてしまう絶対の必要がある。
恨みや憎しみから解放され主とのまじわりを妨げるものがなくなると、甘いいのちの安息がやってくるから・・。
信仰には、主との関係を妨げるものを取り除き続ける「行い」が求められる。それがどれほどのことであっても、永遠の救い主の価値を知るならすぐに出来ることである。大げさに心を占領しようとするものに騙されてはならない。
従順しなければ永遠のいのちまで失うことになり、それほど損なことはない。
みことばに従うには感情を交えず、理性で賢く計算するべきである。
「何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。」
イエスは言われた。「では、一つ尋ねるから、それに答えなさい。そうしたら、何の権威でこのようなことをするのか、あなたたちに言おう。
ヨハネの洗礼は天からのものだったか、それとも、人からのものだったか。答えなさい。」(マルコ11:28~30)
権威について権威である方に罠を設けた宗教者たち。もし、「父から受けた権威」とイエス様が答えるなら「神を冒涜している」と罪に定めることが出来るから・・。
彼らは論じ合った。「『天からのものだ』と言えば、『では、なぜヨハネを信じなかったのか』と言うだろう。
しかし、『人からのものだ』と言えば……。」彼らは群衆が怖かった。皆が、ヨハネは本当に預言者だと思っていたからである。
そこで、彼らはイエスに、「分からない」と答えた。すると、イエスは言われた。「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい。」(マルコ11:31~33)
イエス様は彼らの罠に罠を仕掛けられた。神を恐れず人を恐れることは誰にとっても罠である。十字架の時は御父のご計画によるのであり、人が支配することではないから人に任せることはなさらない。
イエス様はどんなことでもお出来になるお方なのに、父なる神様のご計画通りに歩まれた。
私たちもイエス様に倣ってすべてをお委ねするなら、世に翻弄されることはなく罠に嵌ることもない。たとえその時肉の目にどんなに危うく見えようとも、そこで主の最善を経験することになる。
私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:21)新改訳