
「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない子ろばのつないであるのが見つかる。それをほどいて、連れて来なさい。
もし、だれかが、『なぜ、そんなことをするのか』と言ったら、『主がお入り用なのです。すぐここにお返しになります』と言いなさい。」(マルコ11:2~3)
そこが戦いの場であるから、聖書の預言の通りにロバの子に乗って入城されたイエス様。
ロバの子は主のご計画のとおりに繋がれていた。みことばは真実であるから、みことばが先立つときすべての必要は備えられてあり心配ご無用なのだ。このことはキリスト者の生命線である。
そして、前を行く者も後に従う者も叫んだ。「ホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。
我らの父ダビデの来るべき国に、祝福があるように。いと高きところにホサナ。」
こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、もはや夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。(マルコ11:9~11)
それぞれの願いと計画をもって、人々は歓呼の声でイエス様を迎えた。
人にとってヒーローは期待通りに願いを達成できなければなんの価値もない。イエス様は彼らの願いを叶えるために来られたのではなく、御父のみこころを行うために来られた。そのことを知った時人々は「十字架につけろ」と叫んだ。
エルサレムにも主の居場所はなかった。
翌日、一行がベタニアを出るとき、イエスは空腹を覚えられた。
そこで、葉の茂ったいちじくの木を遠くから見て、実がなってはいないかと近寄られたが、葉のほかは何もなかった。いちじくの季節ではなかったからである。(マルコ11:12~13)
近付いて行かれても、イエス様の空腹を癒すたった一個のいちじくもなかった。主はご自分のためには何のわざも為さらなかったのだ。
しかし、今私たちはなんでも祈り求めることが許されている。私はこのことに驚嘆している。そうして何を求めるのかという答えを此処に知った。
主の必要を満たすものを願うべきと・・時が良くても悪くても。
そこで、ペトロは思い出してイエスに言った。「先生、御覧ください。あなたが呪われたいちじくの木が、枯れています。」
そこで、イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。
だから、言っておく。祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになる。(マルコ11:21~24)