
ピラトが再び尋問した。「何も答えないのか。彼らがあのようにお前を訴えているのに。」
しかし、イエスがもはや何もお答えにならなかったので、ピラトは不思議に思った。(マルコ15:4~5)
みこころを行うときイエス様は何も言われず、黙って身をお任せになった。イエス様が身をませられたのは父なる神様のご計画であった。
キリスト者もすべてを主にお任せする者である。平和なときも危急のときも・・。
祭司長たちは、バラバの方を釈放してもらうように群衆を扇動した。
そこで、ピラトは改めて、「それでは、ユダヤ人の王とお前たちが言っているあの者は、どうしてほしいのか」と言った。
群衆はまた叫んだ。「十字架につけろ。」
ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。(マルコ15:11~14)
群衆を扇動することは易しい。一人ひとりが意志をもって行動するなら、群衆とはなれず、てんでバラバラであるはず。群衆は感情のみで動き夢遊病者のようである。
それにしても、彼らがこれほどまでにイエス様を憎むのはなぜであろうか。彼らの感情をこれほどに刺激したのは軽蔑・・。
乾いた地に埋もれた根から生え出た若枝のように この人は主の前に育った。
見るべき面影はなく 輝かしい風格も、好ましい容姿もない。
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ 多くの痛みを負い、病を知っている。
彼はわたしたちに顔を隠し わたしたちは彼を軽蔑し、無視していた。(イザヤ53:2~3)
もし、イエス様が聖画のような姿なら、十字架には付くことは出来なかっただろう。人は目に麗しいものを愛する。人の価値観は多く目に支配されるから・・。
今も人は目に好もしいものに惹かれて行くが、それはサタンの格好の餌食となる弱さである。
ピラトは群衆を恐れ無実のイエス様を十字架に付けた。人を恐れるか、神を恐れるか・・それを人は、命ある間に選び取らなければならない。
イエス様は人に捨てられ、弄ばれ、侮辱され、侮られることを経験してくださった。どれほど虐げられた人であっても、イエス様ほどの苦しみを経験をすることはない。
そのことは誰でもイエス様を思い出した時、知っていてくださる慈しみのお目に触れることが出来るのであり、そこで流す涙は甘くなる。主と共有している喜びがあるから・・。
イエス様を十字架に付けた兵士達は奪った着物を分けあった。
今キリスト者は、十字架を通して主に賜ったいのちを分け合っている。