石ころ

わたしは真理です(ヨハネの福音書18章)

 

さて、彼らはイエスをカヤパのもとから総督官邸に連れて行った。明け方のことであった。彼らは、過越の食事が食べられるようにするため、汚れを避けようとして、官邸の中には入らなかった。(28)

 

彼らは、異邦人の庭に入って身を汚すと過ぎ越しの祭りを祝えなくなり、肉の欲求であるご馳走が食べられなくなることを恐れた。
イスラエルはローマの支配下に在っても、彼らを汚れた異邦人として軽蔑しており、神の選びの民である自分たちは、律法を守る聖なる民族であると確信していたのである。

 

それで、ピラトは外に出て、彼らのところに来て言った。「この人に対して何を告発するのか。」
彼らは答えた。「この人が悪いことをしていなければ、あなたに引き渡したりはしません。」(29~30)

 

汚れている異邦人に救い主なる王を差し出して殺させ、自分たちは過ぎ越しの食事を楽しむのである。
その祭りで彼らは何を喜ぶのであろう。漫然と言い伝え通りを行って感情のままに欲望を満たし、腹を満たして出自を誇るのである。

 

そこで、ピラトは言った。「おまえたちがこの人を引き取り、自分たちの律法にしたがってさばくがよい。」ユダヤ人たちは言った。「私たちはだれも死刑にすることが許されていません。」(31)

 

ピラトだって関わりたくない。イエスには凡そ犯罪とは無縁の権威を感じ取ったからである。
律法に許されていないことを、異邦人を利用して自らの手を汚さず果すことの何処に聖さがあるだろう。
それは律法を破って殺す以上に腐った行為である。此処に彼らの信仰がどのようなものであったか現れている。

 

これは、イエスがどのような死に方をするかを示して言われたことばが、成就するためであった。(32)

 

それは神が初めからご存じのことであった。彼らが世の終わりに、選びの民として自分たちが何をして来たのかを悟るためであり、彼らの思い上がりを砕くためである。イエスを殺すのはユダではなく、ピラトではなく、神の選びの民であった。

 

そこで、ピラトは再び総督官邸に入り、イエスを呼んで言った。「あなたはユダヤ人の王なのか。」
イエスは答えられた。「あなたは、そのことを自分で言っているのですか。それともわたしのことを、ほかの人々があなたに話したのですか。」(33~34)

 

イエスは何時も問われる。「それは人から聞いて言っているのか、それとも自分の信じることを言っているのか」と、そのとき「すべて私の心から出た言葉です」と答えたい。

初めに人から教わったみことばを自分で生きて経験し、主に家族ごとお委ねして恵みを受けて来たのですと。

神の子であるイエスの死を経て、聖霊の助けの中で自分のものとしてたまわったいのちであれば、感謝に溢れ、喜びに溢れる言葉を霊の賛美として歌い、また絶えることなく霊のうちでは主に祈っているのである。

 

ピラトは答えた。「私はユダヤ人なのか。あなたの同胞と祭司長たちが、あなたを私に引き渡したのだ。あなたは何をしたのか。」(35)

 

「私はユダヤ人なのか」にピラトの苛立ちを感じる。彼は利用されていることを知っているからである。

 

イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように戦ったでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」(36)

 

イエスもまた、「私はこの世のものではない」とユダヤ人との関係を否定された。イエスは救いのために神の座を離れて、ユダヤ人として彼らのうちに来られたのにユダヤ人がイエスを拒絶したからである。

 

そこで、ピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたの言うとおりです。わたしは、真理について証しするために生まれ、そのために世に来ました。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」(37)

 

イエスは「ユダヤ人を支配するために来た王」なのかとピラトは問う、そう彼の言った言葉は的を射ていたのだ。イエスは全世界の王であり世界を創造された方である。

 

「すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。」(ヨハネ1:3)

 

イエスはピラト言葉に「あなたの言うとおりです。」と彼を評価して、彼に大切なことを教えられた。「わたしは真理です。わたしに従いなさい。」という導きの言葉である。このとき尋問するピラトと、イエスの立場は逆転していたのである。

 

ピラトはイエスに言った。「真理とは何なのか。」こう言ってから、再びユダヤ人たちのところに出て行って、彼らに言った。「私はあの人に何の罪も認めない。(38)

 

ピラトは此処まで救いに近づきながら、目の前に居られる真理なる方を離れたのである。彼は詰めを誤り真理に聴くことをせず、自分の遣り繰りでイエスを釈放して守ろうとした。
しかし彼はイエスを守るものではなく、イエスに救いを求める者なのである。


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