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年を取ると眠りは浅くなり、幾度も目覚めてあれこれと思い悩むこともある。今まで身近ではなかった人の事でも、年と共に世の煩いに追い込まれることもあり・・、それを幾分でも理不尽だと感じるなら、なをさら眠れなくなることがある。
「もう!」って起き出して祈った時、長らく忘れていたみことばを思い起こさせてくださった。
そうだった。かってこのみことばに身を寄せて、新しく力を得て幾度も幾度も立ち上がった日があった。
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11:28)
今、みことばのご真実に安らぐことを知っている。そのことを多くの経験を経て教えてくださった。
私たちは世の重荷を主に下ろし、賜った自分の十字架を負って付いて行く者である。主は、私のくびきは負い易いと言ってくださった。また、事実そうだった。
そうして・・私は眠りに落ちていった。
イエスさまのみことばはさなぎを守る繭のように、一方的な愛で幾重にも幾重にも語られ、永遠の約束によって覆っていてくださる。
キリスト者はその繭に包まれ主の愛を経験し、喜んでいなさいと命じられている。
時が来るまでそこにいて、成長を待っていなさいと・・。
しかし、人はそこに在っても世の嵐を見聞きして心乱されることがある。それは、繭の堅固なことを疑ってしまうから・・、いや、みことばの約束に居ても、それを日々見つめ経験していないから忘れてしまっている。
みことばに包まれていることを忘れるなら、裸のままで嵐の中でありそれは恐ろしいのは当然なのだ。
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。(ヨハネ14:26)
時が来たら、イエスさまの備えてくださった家に帰ろう。全幅の信頼という傷のない羽を広げて、愛する方の元に飛び立てますように・・。
こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。(ヘブル12:1)