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石ころ

御翼の下で


 寒風の中、山茶花の赤い花が、葉の下に身を避けるように咲いている。私も昨夜は主の御翼の下に潜り込んで眠った。ぐっすり心地よく眠った。

 主を知らなければ、昨夜は眠れなかっただろう。理不尽な要求を受けて、昼には怒り狂っていたから。なんでそんな不当な要求をするのかと、私はそんなふうに受け取ったから。なんで主人はこんなにお人好しなんだろうと、なぜ怒らないのかと歯ぎしりしていたから。どうしてくれようかと仕返しの方法さえ考えていたから。

 でも、そんな私をじっと見つめる自分がもうひとりいた。怒りが少しおさまると、そのもうひとりが話し出す。聖書にはなんと書いてあるのかと・・。それをお前は何と受けるとのかと。

でも・・と再び怒りが吹き出してきて、みことばをさえぎる。
メッセージで聴いたではないか。みことばを吟味するなと言われていたではないか。いつでもみことばは丸ごと絶対なもの。「しかし、現在の日本では・・」とか「この場合は・・」そんな言葉でみことばを吟味するなと。天秤にかけて計るなと教わったではないか。

自分の中に繰り広げられる激しい応酬の中で、怒りは徐々にみことばに服して行く。圧倒するみことばが次々と、私を洗いきよめるように怒りを押し流してゆく。

「あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」
「下着を取ろうとする者には、上着もやりなさい。」
「一ミリオン行けと強いるような者とは、いっしょに二ミリオン行きなさい。」

 理不尽を受けられたのは誰か。究極の理不尽を受けられたのはイエスさまではないか!私にはどんなに理不尽に思えても、イエスさまの理不尽と比べれば、理屈が通ることになるだろう・・・。イエスさまは何も反論されなかった。呪うどころか、殺そうとする群衆を神様に弁護された!
「父よ彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか自分でわからないのです。」と・・

十字架のためにイエスさまは天の栄光を捨てて、この地に無力な赤子となって来てくださったのではないか。十字架は犠牲ではないか。私は主に多くを赦され、自分の十字架を負って従順すると自ら決めた者ではないか。
「幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならないではないか。」

イエスさまは、十字架を負って自ら死ぬ権威をお持ちであった。イエスさまの十字架は、父なる神さまへの信仰による権威をもって、ご自分から死なれたのだと教わった。なら、私も、みことばに従順することの権威によってこのことを受け止めることができる。なぜなら、元はみことばから出たことだから。
「妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。」

このみことばは、私が信仰に入って間もなく教わった言葉。このみことばに出会った時、私はむしろほっとした。主を知らない夫であっても、私が教え従わせる必要ないんだ。従ってよいのだと・・。

今、このことは主人の選択から出たことであり、それに私が従ったことから出たことだから。此処に勝利はあった。どのような結果になっても主に従うこと以外に、キリスト者の勝利はないことは最低限知っている。私はもう、後戻りして怒ることも、イライラすることもない。失ったものを数えることもしないでおこう。もう、後ろを見ないで前進しよう。

それにしても、弱さの中でだけではなく、怒りの中においてさえ、主に身を避けることができるとは何と幸いなことだろう。


「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:1)

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